乗蓮寺(’東京大仏)本堂 板橋区赤塚 5-28-3 浄土宗 |
山門脇に立つ板橋区教育委員会の説明書きを下に写しました。 左に墓所があり、私の尊敬する冒険家の植村直己さんの墓があります(写真は、下の方に掲載してあります)。 山門、仁王門、本堂の各扉には大きな三つ葉葵の紋が飾り付けられている。 下の解説にもあるとおり将軍家小休所だったからでしょう、川口・錫杖寺も同じです。 |
乗蓮寺御本尊は阿弥陀如来。浄土宗で赤塚山(せきちょうさん)慶学院と称しています。応永年間(1394〜1428)に了賢無的が山中村(現仲町)で人々に教化したことに始まり、後に板橋の中宿(現仲宿)に移転したと伝えられています。天正19年(1591)に徳川家康から十石の朱印地を与えられて以来、代々の将軍から朱印状を与えられました。また寛保3年(1743)に将軍吉宗が鷹狩りの際に雨宿りしたのが縁となり、それ以降将軍家の鷹狩りの小休所や御膳所となりました。 高速道路の建設にともなう国道17号線の拡幅工事により、昭和46年から7年の歳月をかけて現在の地に移転しましたが、その際に天災戦災等の無縁仏の供養や恒久平和を祈願して青銅製の東京大仏が建立されました。 境内には、板橋の領主板橋信濃守忠康の墓や天保大飢饉供養塔、藤堂家縁の石像があります。 平成13年3月 板橋区教育委員会 |
本尊の阿弥陀如来坐像です。印相は来迎印で、両手の親指と人差し指を結んで施無畏・与願印のような形の印です。後の時代になると来迎印の阿弥陀仏は坐像ではなく立像となります。坐像の場合は東京大仏のような弥陀定印(写真下)が多く見られます。 脇侍の観世音菩薩(向かって右)・勢至菩薩(同左)は逆に立像です。 |
赤塚城二の丸跡の碑 |
丘の上に建つ、♪山のお寺の鐘が鳴る |
東京大仏 |
■阿弥陀如来坐像 ■材質:青銅(ブロンズ)製 ■重量:32トン ■座高:8.2m(頭部 3m) ■蓮台:2.3m ■基壇:地上2m、地下1m 昭和52年(1977)4月11日開眼 以前は台座下の基壇の中に大仏建造時の写真や石仏など拝観できたのだが立ち入り禁止になっています。 完成当時と大仏の顔が変わったような気がします。しばし眺めていたら気が付きました。色が前は黒かったのです、それが落ちて、本来の姿になったのではないかと思います。 |
|
山門 |
山門の石段を上ると正面に金剛力士像の阿吽の仁王が睨みを利かしている。裏側には、広目天と多聞天=毘沙門天像があります。 寺院内には徳川家の三つ葉葵の紋が各所で見られるので、葵の紋を集めてみました。まだあるかも知れません。 【葵紋寺院 関連事項】 錫杖寺(川口)|全棟寺(川口) |
仁王門の扉 | 本堂の扉 |
本堂屋根には3個 | 仁王門の内側上部 |
山門の門柱の上 | 閻魔堂の鐘の上 |
本堂扉前賽銭箱 | 福寿観音堂前賽銭箱 | 閻魔堂前賽銭箱 |
閻魔大王と奪衣婆(だつえば) |
山門への石段下、入口の右側に閻魔堂(写真下)がありガラス越しに拝観する。閻魔像の左に奪衣婆があり前に十王が並ぶ。死んだ人の生涯が映ると言われる鏡がある。この閻魔像は近隣にその名を知られ多くの信仰を集めていました。板橋の二大閻魔の一つで、もう一つは文殊院の閻魔 奪衣婆の石像が境内の奥にもあります(津藩主藤堂家旧蔵=写真下) 閻魔堂
|
|
弁天堂 |
池には大きな鯉がたくさん泳いでいる。池の真ん中には金色に輝くの小さな堂が建ち弁財天が祀ってある。弁財天を望遠で撮ってみたが、正面のガラスが汚れていてハッキリ写らないのは残念だが、八臂の美しい弁財天だ。 境内には七福神が勢揃いしているが、その中の弁財天像写して比べてみると右の方は二臂の違いはあるが顔も現代的だ。 【関連情報】近隣の弁財天特集 |
|
板橋信濃守忠康墓(付石灯籠) |
墓の脇に立っている板橋区教委区委員会の解説を下に写しました。また、右は墓碑(戒名)の写真です。 写真右に墓に刻まれた戒名は 本樹院殿前信州空山有腎?定門 |
板橋信濃守忠康墓(付石灯籠) 板橋氏は、平安末期より豊島郡を支配した武蔵豊島氏の一族であり、その末裔にあたる信濃守忠康は、「寛永諸家系図伝」によると天正年間(16世紀末)には、北条氏直に仕えていたといわれています。 忠康の子である忠政は、北条氏滅亡後に徳川家に仕え、子孫は旗本として幕末まで続きました。また、同じく忠康の子で、忠政の弟である蓮源社本誉利覚は、浄土宗の赤坂浄土寺の住職となっており、その関係から歴代に旗本板橋氏は浄土寺を菩提寺としています。 その中で、文禄二年(1593)11月21日に亡くなった忠康だけは、本貫地である下板橋にあった乗蓮寺を菩提寺としています。 寛政四年(1792)に、先祖忠康の二百回忌が旗本板橋盛壽・盛種によって乗蓮寺で営まれ、その際に墓石が再建されています。なお、その顛末は、区文化財の「乗蓮寺文書」で確認できます。 なお、墓石の脇にある石灯籠は万延元年(1860)に十三代の板橋政道が奉納したものです。 平成10年に区登録有形文化財となりました。 平成20年3月 板橋区教育委員会 |
天保飢饉供養塔 |
供養塔の脇に立っている板橋区教委区委員会の説明書を下に写しました。 |
天保飢饉の供養塔 天保の飢饉は、享保・天明の両飢饉と並び江戸時代三大飢饉の一つに数えられています。天保4年(1833)から同7年にかけて全国的な天候不順による凶作、疫病の流行によって大勢の餓死者や行路病死者(行き倒れ)が出ました。 幕府は、白米や銭を支給するとともに、同8年(1837)には、新宿・品川・千住・板橋の四宿に救助小屋を設けてその救済に努めましたが、亡くなる人はあとを絶ちませんでした。 この供養塔は、当時板橋宿の中宿にあった乗蓮寺の住職撮譽上人が、宿内の死者を寺内に埋葬し、その菩提を弔うために建立したものです。正面と左右の面には、江戸中期の浄土宗の高僧祐天上人筆の「南無阿弥陀佛」の名号が、また台座には同8年3月から11月の間になくなった423人(男333人、女49人、子供41人)の戒名が刻まれています。 昭和61年度に板橋区の文化財(歴史資料)に登録されました。 平成17年3月 板橋区教育委員会 |
福壽観音堂 |
脇の立札には福壽観音・北村西望作とあり、堂内はガラスケースに光が反射して良く見えない(写真下)が金色で背の高い観音菩薩です。名前が似ているが七福神の福禄寿とは全然違ってます。 |
北村西望 略歴 明治17年(1884)長崎県生まれ。 昭和30年長崎「平和祈念像」完成。 33年、文化勲章、文化功労者顕彰。 日展名誉会長、日本彫塑会名誉会 長などを歴任。昭和62年、104歳 で逝去。 |
仏像のいろいろ |
仁王門の正面が金剛力士の阿吽像。 反対側には多聞天=毘沙門天像と広目天です。金網が邪魔して良い写真が撮れません。 下、一番右は、最近気が付いた「お願い地蔵」です。赤い旗指しが脇に立ち花が供えられて、この一角だけ派手な雰囲気で何やらお願いをすればかなうらしい。その左は阿弥陀如来。 |
左から、文殊菩薩、行者の元祖・役の小角(えんのおずえ)、足の病気に霊験あらたかな鉄拐(かい)仙人、何でも耐えるがまん鬼。下4枚の像は藤堂高虎が朝鮮出兵の時に持ち帰ったといわれています。 「がまんする鬼」は藤堂家が浅井、織田、徳川と三代にわたり仕えてきた、その心持ちはまさに我慢のし通しだったことを現しているそうだ。 |
植村直己さんの墓 |
冒険家の植村直己さんの墓があります。墓所入口からまっすぐ進み左折するところに案内表示があります。追悼文をを草野心平さんが書いています。 地球には もう彼はいない けれども生きている 修身に化けて 植村直己は 私たち心中に 生きつづける 草野心平 世界5大陸最高峰登頂、犬ぞりによる北極圏の完全走破などに成功。昭和59年(1984)年にマッキンリー冬期単独完全登頂成功後に消息を絶ちました。 |
|