スマホ用サイトはこちら 錫杖寺(川口)
 錫杖寺(しゃくじょうじ) 川口市本町2-4-37  真言宗智山派
錫杖寺(川口)

本尊の地蔵菩薩
本尊の地蔵菩薩

三つ葉葵の寺紋
【錫杖寺 施設案内】 リンク錫杖寺サイト
 
  川口七福神の案内はこちら

杖寺の由緒に「末寺53ヶ寺を有する名刹」とあります。浮間の末寺・観音寺→万蔵院(赤羽北)とつながり。赤羽の末寺・真頂院→真頂院の僧運珍が小豆沢に隠居寺に建てた東光院(現龍福寺)、諏訪神社も真頂院持ちでした。
錫杖とは僧侶・修験者の持つ杖。頭部は錫(すず)で作り、数個の鐶を掛ける。比丘十八物の一

元朝参り

除夜の打鐘は午後11時に整理券配布、午前零時より打鐘開始(福引きお守りあり)。
新春特別大護摩供ご修行は1月1日〜5日、11時、13時、15時、17時に行う(寺の受付へ申込み)

沿革

開基は天平12年(740)の春、行基菩薩によって草庵が結ばれたのを濫觴とすると伝えられている。京都泉涌寺6世願行上人(憲静)、北条時宗の帰依を受け、鎌倉市大町の長楽寺を開創すると共に錫杖寺を再興する。寛正元年(1460)足利8代将軍義政、満海法師のすすめにより、七堂伽藍を整備、宥鎮和尚を晋住せしめたので宥鎮和尚を再中興の祖と仰ぐ。以後、醍醐三宝院直末七ヶ寺の一、十一談林所の一として、末寺54ヵ寺を有する名刹として栄える。 元和8年(1622)2代将軍秀忠、日光社参の折(日光御成道)、御休息所となり、以来これが吉例となり、徳川家と深い関わりをもつことになった。慶安元年(1648)3代将軍家光より金子、材木を拝領し御成門を建立、更に御朱印20石を賜る。4代将軍家綱、疱瘡治癒祈願を仰せつけられる。5代将軍綱吉の時には年頭あいさつの折の上殿を許される。 天保9年(1838)本堂焼失。天保12年(1841)本堂再建。嘉永5年(1852)川口の大火により堂宇類焼。安政2年(1855)家定より江戸城の別館、品川御殿を賜り、本堂、庫裡として使用する。現在の本堂は昭和50年(1975)に新築された。 写真左は本堂屋根の頂上にある寺紋で徳川家の三つ葉葵、その上は十六菊の紋章。境内に葵紋はまだあります。川口市東本郷の全棟寺も徳川家に縁の寺で三つ葉葵の紋章です。 【ネタ帳】 大奥最後の御年寄り「滝山」が錫杖寺に葬られている。滝山は16歳で大奥へ上がり、御年寄に昇進。今でいう総取締役で大奥第一の重役。13代家定、14代家茂、15代慶喜の三代に渡って御年寄を勤める。大政奉還のとき滝山は250人の奥女中に拝領物を与え、江戸城大奥の最後の締めくくりを行う。江戸城から「滝山の駕籠」で川口市朝日へ、その駕籠も錫杖寺に保存されているという。 何故、川口かといえば、滝山に仕えていた侍女の生家を頼って来たようです。晩年には婿養子を迎えて「滝山」の苗字を名乗らせます。明治9年(1876)72歳で逝去。 墓石には、「瀧音院殿響誉松月祐山法尼」 と刻まれている。→滝山局の墓 先日テレビで子孫の方が出られていたが、ゆかりの品などは処分してしまい、何も残っていないそうだ。


錫杖寺山門

錫杖寺本堂
spacer
初詣 初詣
元朝詣り 元朝詣り
元朝詣りは大勢の人で賑ぎあう
誕生仏 誕生仏
お釈迦様の誕生日の4月8日には甘茶を掛けて祝う

地蔵尊院  大慈山地蔵尊院延命寺 【本尊】延命地蔵菩薩

地蔵尊院 地蔵尊院は、元和4年(1618)良栄法印によって開山された。元々、錫杖寺の門前にあったが、錫杖寺が将軍家日光参詣の時の休憩所となり門前を広くするために、現在の川口神社へ移築された。しかし、明治の神仏分離令が発布された年に再び錫杖寺へと移築された。その後、錫杖寺の塔頭寺院として住職不在のまま年月が過ぎていたのだが、平成6年に現住職が再興し現在に至っている。本尊は、石仏の延命地蔵菩薩。地域住民より錫杖寺の地蔵堂と親しまれ、医療の発達していなかった時代には、万病を治癒させてくれる霊験あらたかなる地蔵様として参詣が絶えることがなかった。 下は新春特別大護摩供ご修行。
地蔵尊(本尊) 扁額
初詣 護摩たき
上の写真は大晦日を過ぎた頃の地蔵尊院のようす。午前0時、除夜の鐘の音が響く中、地蔵尊院の堂内では護摩たきが行われる。護摩木を燃やし、無病息災、増益敬愛を祈る行事で、次々と煙にお札がかざされて霊験あらたかになる。
下の写真は、1月1日〜5日の新春特別大護摩供ご修行のようす。11時、13時、15時、17時に行なわれる。
修行 修行

川口天満宮

川口天満宮
川口天満宮の縁起は社前に掲示されている(下に転記)。それによれば、天神社の御神体は道真公の自作で、昔、天神社の傍らにあった梅の木の根元から掘り出されたと伝えられる。
天満宮内の宮殿には三体が分かれて祀れている。正月に開扉されていたので、どれが道真公自作の像だか思案してみた。中央の像と、土に埋まっていた木造らしい向かって右の像を掲載しました。これは、大変珍しい写真だと思います。
川口天満宮 川口天満宮specer川口天満宮
【川口天満宮畧縁起】 社の前に説明板が立っているので転記
天満宮は天満大神(菅原道真公)(845〜903年)を祀る社である。菅原道真公は野見宿彌の子孫であり大和国菅原の地名より菅原宿彌となり、後に朝臣となる。代々文章道をもって朝廷に使えたが延喜元年太宰権師に左遷され、翌々年同所で死去、その後雷神信仰と結び、中世以降各地で寺社の中に祀られ盛行した。
当山に安置する天満宮は、もとは境外西の方にありご神体は今からおよそ1,100年前道真公自らの作として伝えられ、梅樹の根より穿出(せんしつ)せしものという「武蔵風土記稿第七巻」。
学問・文芸の神様として知られ、2月25日が菅原公の命日、毎月25日が縁日として多くの方々の信仰を集め、今日に至っている。
平成3年1月 錫杖寺

福禄寿堂(川口七福神) 弁財天(本堂)


specer
 川口七福神案内(全て紹介してます)

堂の中を拝見すると例の頭の長い福禄寿の像が安置されています。像をよーく見れば、何だか埃がかぶっています。これもまた、ありがたいことで・・・・
【福禄寿】
  福禄寿は長頭短身・童顔で髭の長い温和な容姿。人々の福(幸福)と禄(財物)と寿(寿命)の三つの福徳を恵む神で、裕福で安定した生活、健康にして長命、平穏無事といった幸を授ける、福智無量のいわば生活全般を司る神である。
  長頭で経巻を結んだ杖を持つ姿は叡智や文雅、学業成就、人望の表れである。
  年齢は数千年と言われる仙人で、不老長寿の秘薬を入れた瓢聾(ひょうたん)を携え、長寿の象徴である鶴を侍らせる延寿吉祥の神でもあるが、ここから、人の命を支配する南極星の化身であるとも言われて寿老人と混同されることが多い。本堂の中には写真下の弁財天を見付けた。

籠形の六地蔵

籠形の六地蔵
灯籠形の六地蔵。六地蔵の足下には小さな地蔵がたくさん並んでいる。
写真下の真ん中は観音菩薩(左)、地蔵菩薩(右)。
写真下の右は2008年に登場した「かわぐち地蔵」。
籠形の六地蔵 地蔵像 かわくち地蔵

鐘楼  大師像

鐘楼 除夜の打鐘は午後11時に整理券配布、午前0時より打鐘開始(福引きお守りあり)。近所の騒音に配慮して百八の二回りで終了。

《銅製の梵鐘》

この鐘楼に吊られている梵鐘ではないが、銅鐘が別途展示してある。
川口の鋳物師であった長瀬治兵衛守久が寛永18年(1641)に作った銅鐘は、川口鋳物史上初期の作品として有名で県指定の文化財になっている。
施主は扇ヶ谷上杉の子孫であり太田道灌の旧臣である宇田川一族で、川口宿の名主を代々務めていた。

弘法大師像

錫杖寺は真言宗だから開祖の弘法大師を祀る寺が多い。  大師像特集ページ
鐘楼 除夜の鐘

十三仏

十三仏
【十三仏】  不動明王(初七日),釈迦如来(二七日),文殊菩薩(三七日),普賢菩薩(四七日),地蔵菩薩(五七日),弥勒菩薩(六七日),薬師如来(四九日),観世音菩薩(百カ日),勢至菩薩(一周忌),阿弥陀如来(三回忌),阿しゅく如来(七回忌),大日如来(十三回忌),虚空蔵菩薩(三十三回忌)。

左下の写真は良く見られる十三重塔だと思って写真を撮りましたが、数えると十八重あります。多宝塔と言うのかも知れない。
釈迦の入滅後は仏像崇拝は禁止されて400年ほどは写真の塔(遺骨を納めてある)とか足跡を拝んでいたと言われます。

《四国八十八ヶ所お砂踏み》

本堂内において、正月三が日限定で、四国八十八ヶ所のお砂と御本尊様を御祀りし、お参りが出来ます。この「お砂踏み」は、四国八十八ヶ所霊場をお参りしたのと同じだけの功徳があるといわれております。 写真下の御守りも無料で頂けます。大きさ2×6センチ。
お砂踏みお守り
多宝塔

鋳造地蔵

鋳造地蔵 鋳造地蔵堂 山門を入ってすぐの左側の堂(写真下)内にある。さすがは川口、鋳物製の地蔵尊だ。
錫杖寺の解説を引用すれば、川口市で長年鋳造を業としてきた青山某の遺言によって似顔そのままを鋳造して安置したことから、俗に青山地蔵と呼ばれ町の人々から除災延命、商売繁盛の霊験顕かな地蔵尊として信仰され、今も供花が絶えません。

【関連情報】
鋳物製の弘法大師像が善光寺(川口)にあります。
リンク  日光御成道

葵の紋章を色々集めてみました


境内にある葵の紋章を集めてみました。
(左)屋根のこの部分をなんというのか知りませんが、金色に輝く紋章と、すぐ上の丸い瓦にも分かりにくいが葵の紋章がずらり並んでいます(1個拡大)。
石灯籠は一対あり、一基づつ別人が奉献したもよう。右のは寛延4年(1751)に鳥羽城主の稲垣昭賢が建立したもの。鳥羽城は昭賢(あきかた)が享保10年(1725・徳川吉宗の時代)に下野烏山から3万石で入城し以後明治まで続いた。
他にもまだあるかも知れません。
【葵紋寺院関連】全棟寺(川口)乗蓮寺(赤塚)
葵の紋章
葵の紋章
写真は右側の灯籠、胴体の竿と呼ばれる部分を拡大して銘を読むと、東叡山(寛永寺)有徳院殿(吉宗)尊前 寛延四年(1751)辛未年六月二十日
志摩国鳥羽城主に葵の紋章があり、笠の上にもあります。左側の灯籠は日付までが同じだが名前が一部判読できない、
「従*座市*下総守藤原姓追墓」らしい。
葵の紋章 葵の紋章 葵の紋章
賽銭箱 天水桶 ろうそく立て
葵の紋章 葵の紋章 葵の紋章
本堂手前天上幕 掲額の四方の中心に葵紋 天満宮屋根頂上
葵の紋章 葵の紋章 葵の紋章
塀の屋根 鐘楼屋根瓦角に四つ 屋根瓦にはたくさん見える

瀧山の墓(大奥御年寄)

瀧山の墓
specer
瀧山の墓 瀧山の墓案内図

瀧山の墓は本堂裏手にある。写真中央がそれで、東向きに建ち「瀧音院殿響誉松月祐山法尼」と刻まれている。左は侍女の中野、右は叔母の染島の墓。
墓碑背面の銘によると、東京府士族 東京南伊賀町(現・新宿区若葉) 七代目主 大岡権左衛門長女 徳川家大奥老女俗稱 瀧山 行年七十一歳、とある。
spacer
滝山は16歳で大奥へ上がり、御年寄に昇進。今でいう総取締役で大奥第一の重役。13代家定、14代家茂、15代慶喜の三代に渡って御年寄を勤める。大政奉還のとき滝山は250人の奥女中に拝領物を与え、江戸城大奥の最後の締めくくりを行う。江戸城から「滝山の駕籠」で川口市朝日町へ、その駕籠も錫杖寺に保存されているという。
何故、川口かといえば、滝山に仕えていた侍女・中野の生家を頼って来たようです。晩年には婿養子を迎えて「滝山」の苗字を名乗らせます。明治9年(1876)1月14日71歳で逝去。
先日テレビで子孫の方が出られていたが、ゆかりの品などは処分してしまい、何も残っていないそうだ。

瀧山の墓
案内図 錫杖寺へは川口駅から800m。
赤羽駅東口発 [赤21]鳩ヶ谷公団住宅行 または
[赤20] 市立医療センター行 で「川口市立文化財センターバス停」下車2分。
車の場合は一方通行の向きさえ気を付ければ駐車場は広いので心配は要らない。

【関連情報】
錫杖寺は徳川家日光参拝の折は御休息所となっていた。→日光御成道


↑先頭へ
日光御成道