文殊院の閻魔像 板橋区仲宿28
【文殊院の閻魔像】
真言宗豊山派、幡場山大聖寺文殊院と号す。
本尊は文殊菩薩(寛文年間(1661〜1673)の作と伝えられている)。
江戸初期、本陣飯田家の菩提樹として、古くから信仰を集めていた延命地蔵尊の境内を拡げて建立された。開山は寛永2年(1625)み入寂の権大僧都慶恵と伝える。天保6年に全焼し、安政以降正住職を置かず、赴任する仮住職も短期間で他の大寺へ転住し、出世寺とも呼ばれた。
山門脇に延命地蔵堂、境内に二大閻魔を祀る閻魔堂、足腰の守り神と知られる子の権現がある。墓地には史跡として有名な宿場時代の遊女の墓がある。本堂内には、板橋七福神の毘沙門天が奉安されている。
飯田家墓地の飯田静の墓碑は昭和63年度に、また本尊文殊菩薩は平成元年度に板橋区の有形文化財に登録された。
平成14年3月
板橋区教育委員会
二大閻魔のもう一つは赤塚の
乗蓮寺にあります。
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奪衣婆 |
閻魔堂 |
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文殊院の本堂 |
山門と左は延命地蔵堂 |
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延命地蔵尊 |
足腰の守り神とされる子の権現(像は弘法大師のようだ) |
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衣服を剥いで衣領樹=えりょうじゅに架ける |
観音と焼酎・閻魔 |
五重の塔 |
【子の権現 縁記】
子の権現(ねのごんげん)は平安初期の人なり、霊夢を感じ秩父山に登り御修行中、蛮人の為火難に遭い、腰より下に大火傷を負い、長い年月、起居に不自由せられしが、神仏の加護を得、遂に全快せられたり、この奇跡を見て、蛮人前非を悔い、悪行を止め弟子となり、共に此の山を開き、此の地に滅した。
「我が霊、この後は、腰より下の病に悩む者を廣く救済せん」との遺言あり。
後の人、その徳を仰ぎ、足腰の守り神として子(ね)の山に祀り、権現様と尊称し、腰より下の病の平癒を願う者、小槌をいただき、病の箇所を静に叩き成就の後、小槌の数を倍にして奉納し、恩に報いるを習慣とした。
堂宇修築移転に際し記す
昭和63年1月 住職
(注釈)
<本家>子の権現天龍寺
〒357-02 飯能市大字南461 天台宗 大鱗山雲洞院天龍寺
天龍寺は第1世恵聖上人から第29世真海の代まで羽黒山の末寺であったが、宝永2年(1705)、第30世教海の代に天台宗・東叡山寛永寺の末寺となり、それ以降は寛永寺の任命によって住職が選出された。その後、各地に子の権現社が勧請されて各地に社が建てられる。ここ文殊院の子の権現もその一つで、飯能まで出掛けなくてもお参りできる。
子の山は天龍寺奥の院のある経ヶ峰をさす。
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