松月院・大堂(板橋区赤塚6丁目40-4)
大堂全景
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松月院とは少し離れた場所にあるが、上の地図を参照してほしい。解説板が立っているので下に写しておきました。
それには、鎌倉時代以前は七堂伽藍に十二脇坊を備えた大寺であったとありますが、現在は、写真左で、左の石段側に阿弥陀堂(豊島八十八ヶ所札所の40番)と国の重要美術品に認定された梵鐘があり。
右の石段側に、八幡神社と奥に稲荷神社がある。
鐘楼には看板があり「この釣鐘は国の重要美術品に認定されている暦応の古鐘です。鐘には少し割裂がありますので保存上つき鳴らすことを禁止しております 松月院」。だが、近くにある区立資料館にも同じ名称の梵鐘が陳列されてますので下端に掲載。


阿弥陀堂
阿弥陀如来
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古い梵鐘 八幡神社社殿 稲荷神社
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東京都指定旧跡
松月院大堂
所在地 板橋区赤塚6丁目40-4
指定  大正14年15月
 この地域は江戸時代は江戸幕府の直轄地(幕領)であり、豊島郡峡田領下赤塚村に属していた。大堂とはここでは阿弥陀堂にことで、「新編武蔵風土記稿巻之十四」によると、南北朝の建武・延元の頃(1334〜40)は、七堂伽藍をそなえた大寺院であったので、村人は大堂と称していたという。永禄4年(1561)3月長尾景虎(上杉謙信)が上杉憲政を奉じて北条氏康を小田原に攻めた際に、堂宇ことごとく焼き討ちにあって消失したと言われる(注釈、その大堂が上杉謙信に焼かれたとき、火の中から本尊阿弥陀如来が出現し、八幡社傍らの古木に止まった、という記述が見られます)。 ちなみに大堂のあるこの丘は、実は古墳といわれています。
  文化11年(1814)2月に大堂を訪れた小石川本法寺の老僧十方庵敬順は、「往還の西角にして小高き処にあり、則ち石段を登る拾四五段、本尊は坐像の弥陀、御丈弐尺四寸五分ばかりと覚ゆ」と紀行文『遊歴雑記』に書いている。  東側の八幡社は、江戸時代から下赤塚の鎮守社で、明治初年の神仏分離令によって神社の参道から右は八幡社、左は大堂と分けられたいる。
 南北朝の暦応3年(1340)鋳造の梵鐘と鎌倉時代末期の制作と言われる本尊阿弥陀如来坐像はともに有名で、江戸市中からの参詣客が絶えなかったと言われている。
  平成13年3月31日 設置  東京都教育委員会

大堂
本堂に安置された阿弥陀如来坐像は、高さ約90センチの木像で平安時代後期の作と思われる立派な尊像である。
また、堂前の梵鐘は暦應三(1340)年の鋳造で、学僧として名高い鎌倉は建長寺四十二世中岩(円月)も撰文の鐘銘により名鐘として誉れ高く、古来文人墨客の杖をひくところとなった。
鎌倉時代以前は七堂伽藍に十二脇坊を備えた大寺であった大堂も、永禄四(1561)年上杉謙信による小田原攻めの時兵火のかかったと伝えられ、いまはわずかに本尊と梵鐘に往時の面影をしのぶにすぎない。
平成5年2月  板橋区教育委員会

八幡神社
御祭神品陀別命(ほんだわけのみこと)。
創建時代は不詳であるが、当社は隣接する大堂の守護神として創建されたといわれ、古墳の上に立てられている。暦応三(1340)年に鋳造された大堂の銘文によると、大堂は建武(1334〜38)の頃隆盛であったことが明らかであるから、当社もこの頃にはすでに創建されていたものと思われる。御神体として木像の騎上八幡が安置されていたと伝えられている。江戸時代には下赤塚の一部の鎮守であった。
神社の後方にある欅の大木(現在は株のみ)は、八百年以上を経過したものと考えられる。
平成6年3月  板橋区教育委員会
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暦応の梵鐘 区立資料館に陳列されている梵鐘。梵鐘下部に解説文があるので以下に転記したが、これを読むと、どうやらここにあるのが本物らしい。
些細なことですが、大堂にある説明板には建長寺四十二世の名が中岩円月となっているが、区立資料館の方は中巌円月です。気が付いたので書いておきます。

大堂の銅鐘
大堂の鐘楼につるされていた、北朝年号の暦応3年(1340)の銘をもつ板橋区最古の梵鐘です。青銅製で、銘文は後に鎌倉建長寺四十二世となった、中巌円月の撰によります。昭和24年(1949)、国の重要美術品の認定を受けています。
  高さ102cm。口径55cm
  登録有形文化財。

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