松月院 板橋区赤塚8-4-9 曹洞宗 
松月院本堂

山門
門柱
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【門前に立つ説明板を写す】
松月院 萬吉山宝持寺 曹洞宗
延徳四(1492)年、千葉自胤(よりたね)はこの寺を菩提寺と定め、寺領を寄進し自ら中興開基となった。開山堂には開基の位牌をまつり、本堂西側の墓地には自胤のほか比丘尼了雲の墓碑も建てられている。
また、天正十九(1591)年、徳川家康は四十石の朱印地を当寺に寄進したが、これに習って歴代将軍が下付した朱印状が寺宝として秘蔵されている。
天保十二(1841)年、長崎の人・高島秋帆は幕命により、徳丸ヶ原で洋式砲術の訓練を行ったが、その前夜、当時を本陣とした縁故で遺品類が保存され、顕彰碑も建てられている。
平成4年3月 板橋区教育委員会
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不許葷酒入山門 山門脇にひときわ大きく立つ石柱があり、 いわく、
「不許葷酒入山門」とあります。
(くん)は五葷または五辛(ごじん)といわれ。仏家では、大蒜(にんにく)・韮(にら)・葱(ねぎ)・辣韮(らっきょう)・野蒜(のびる)をいいます。時代や場所によって生姜が入ったりしているようでが、精神修行をしているお坊さんなどが食べないようです。精力がつき過ぎて、修行の邪魔になるためです。
それと酒も修行の妨げになるようです。

川口市安行原の密蔵院では「不許酒肉五辛入院内」
川口市戸塚の西光院では「狐狸妖怪不許入山門」
などがあります。

豊川陀枳尼眞天

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豊川陀枳尼天
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豊川陀枳尼天
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陀枳尼天(茶枳尼天・ダキニテン)、元は生きた人間を殺害してその肝を食す女の鬼神であったが御仏の怒りに触れてその通力を封じられた。しかしこの鬼類は人の肝でしか命を繋げないため御仏は、むやみな殺生をしないようにと「半年先に命終する人間を予知する」通力を授けた。そして命終の後に肝を取るようにと諭したといわれる。
以来、陀枳尼天のこの予知の通力を得るために、多くの修験者や密教系僧侶達が信仰の対象とした。しかし元が元であるために、神なのか魔なのかが判然としない。

真言密教では、稲荷神をインド伝来の鬼神・ダキニテン(陀枳尼天)と同一であるとしています。
稲荷は二つに分類されます。五穀と養蚕を司る穀物神・農耕神としてのウカノミタマ(宇迦之御魂・倉稲御魂)で稲荷明神として知られています。このお稲荷さん(稲荷神)は、京都の伏見稲荷大社が信仰の発祥神社で、一般に伏見稲荷として知られ、全国三万余りの社の総本社となっています。この社と合わせ、佐賀・祐徳稲荷大社、茨城・笠間稲荷神社を日本三大稲荷と呼びます。
もう一つは神社ではありませんが、愛知・豊川稲荷(正式名は円福山妙厳寺・曹洞宗)の本尊は千手観音ですが仏教のダキニシンテンを稲荷神として祀ります(江戸の名奉行・大岡越前守が信仰したことで知られます)。開山の東海義易の師寒厳義尹に始まる話、義尹が宋から帰朝するときに、突如として陀枳尼天が現れて「以後、義尹を守護する」と告げた。それに感激した義尹は陀枳尼天を自刻し、妙厳寺の山門に鎮守として安置したという。開山時には、さまざまな奇跡を起こして便宜をはかったといわれる。

【関連事項】 陀枳尼天社
 普門院(赤羽)弘法尊院(与野)



高島秋帆顕彰碑・千葉自胤墓

高島秋帆顕彰碑
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千葉自胤墓
それそれの脇に説明板が立っているので写す。

【高島秋帆顕彰碑】
高島秋帆先生紀功碑
この紀功碑は、別名火技中興洋兵開祖碑とも呼ばれ、ここ松月院に本陣を置き、徳丸原で日本最初の本格的な西洋式砲術を指揮した、高島秋帆を顕彰する目的で大正11年12月6日(1922)建立された記念碑である。
高島秋帆は、寛政10年(1798)長崎町年寄りの名家に生まれ、長じて出島のオランダ人より西洋の砲術を学んだ。天保11年(1840)、中国清国と英国との間で阿片戦争が勃発し、西洋の進んだ軍事技術に清国が大敗すると、その危惧が日本に及ぶことを恐れた高島秋帆は、天保上書を幕府に上申、日本の従来からの砲術技術の変革を唱え、西洋列強に対する防備に一貫として西洋式軍事技術の導入を説いた。
天保12年(1841)5月7日〜9日までの3日間、高島秋帆は赤塚の朱印寺として名高い松月院に本陣を置き、門弟100名と起居を共にしながら、現在の高島平、徳丸原にて洋式砲術を公開し、世にその名声を得たが、まもなく讒言(ざんげん)にあい永牢に繋がれた。
嘉永6年(1853)夏、11年に及ぶ幽閉を解かれた高島秋帆は、江戸幕府の肝入りで講武所を開設し、支配及び師範に出仕し幕府あるいは諸藩の西洋式軍事技術普及に貢献した。慶応2年(1866=江戸時代)正月江戸小石川にて69歳の生涯を閉じた日本陸軍創設者の一人として名高い。
紀功碑は、安政4年(1857)に鋳造された銅製24斤加農砲を碑心に火焔砲弾4発を配した大理石製の台座にのせた特異な形をとり、砲術に長けた高島秋帆を象徴する。総高6メートル。
  →製作指導したカノン砲
【墓の右に立つ説明板を写す】
赤塚城主 千葉自胤(よりたね)の墓
享徳・康正のころ、鎌倉幕府管領上杉氏と古河公方足利市の争乱は関東を二分し、名族・千葉氏も一族が双方に分属し、骨肉相喰む争いの結果、康正2年(1456)、自胤方は戦い敗れ傷心の身を上杉方の柱石・太田道灌に譲られて赤塚城に移り、勢力を挽回して南部の大豪族になった。自胤は近くの宝持寺を菩提寺と定め、寺領を寄進し、寺号を松月院と改め曹洞宗に改宗させ、自ら中興開基となる。三基ある墓碑のうち、右が自胤(一説には自秀ともいう)、中が奥方龍興院殿、左の宝篋印塔(ほうきょういんとう)が比丘尼了雲、区内最古の墓である。
平成4年4月  板橋区教育委員会 

ヒイラギ・鐘楼

天然記念物のヒイラギ 鐘楼
板橋区登録文化財の天然記念物・ヒイラギ 鐘楼
松宝閣(寺宝館) 宝篋印塔
松宝閣(寺宝館) 宝篋印塔(ほうきょういんとう)
山門をくぐってすぐの右側にヒイラギがある。板橋区の天安記念物に指定されている。説明板があるので下記に写した。左側には写真右の宝篋印塔(ほうきょういんとう)で、これほど大きいのは近隣では見たことがない。下は松宝閣(寺宝館)で宝物殿。
【松月院の鐘楼】
樹種、ひいらぎ(モクセイ科)。樹高、約10メートル。目通り、約270センチメートル。樹齢、約100年(推定)。
ヒイラギは厚い常緑の葉の鋸歯(ぎざぎざ)が鋭く、さわるとひいらぐことから、この由来が出ている。ヒイラギの小枝と鰯の頭を節分の門辺に指し、鬼の進入を防ぐという風習は最近まで見られる。また、ヒイラギの葉は若木では鋸歯が鋭く、古木になると鋸歯は消滅して全緑となり丸くなることから、人間の成長過程を象徴するとの説話も残る。
松月院のヒイラギは、上部の樹幹の葉は丸く、下部の若い枝の葉は尖った鋸歯を持っている。このような説話の葉の特徴を備えた古木は区内には珍しい。
平成6年度、板橋区登録文化財の天然記念物(名木・巨樹・老樹等)とした。
平成8年3月  板橋区教育委員会 
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