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本堂脇の末社(天神社と八幡社)
鳥居先で参道を道路が横断している
七代忠順が建立した八幡宮石祠
赤山山王権現社本殿 |
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御陣山稲荷 |
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伊奈半十郎忠治公 |
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怒る富士 |
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怒る富士 上・下 新装版 文春文庫 新田 次郎 上下とも:定価(本体571円+税) 噴火記録, 宝永噴火によって富士山の東山麓は膨大な火山灰に埋まった。噴火後、飢餓に苦しむ山麓の人々を救済するために立ち上がる関東郡代・伊那半左衛門忠順。 内容は以下にあります |
二八そば 砂場 川口市安行西立野294-4 電話:048-296-1933 |
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安行地区を散策するなら、食事処は『二八そば砂場』をお勧めします。 私はもっぱら「もりそば(600円)」オンリーですが、連れ合いは冷やしたぬきそば(夏季限定)、天ぷらそばなどいろいろ注文しています。 なにしろ、そばそのものが旨い、風味、こし、たれ、どれも堪能できる。 写真の車が駐車している側が本通りに面している。駐車場は店の横と、店正面方向の1本先の路地の路地を入ったところにある。 |
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安行の道の駅、樹里安(じゅりあん)の写真。左の高い屋根は安行の植木を販売してる。 |
以下は集めた資料集 |
↑ページトップ | 赤山城趾の堀を全て掲載 |
伊奈家代々の略歴(赤山城以降) |
現地に立つ埼玉県教育委員会の解説を採用した |
名前・代 | 年 | 業績 | 出来事 |
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忠次(初代) (ただつぐ) |
1591(天正9) | 小室(伊奈町)に陣屋を設ける (1550〜1610 61歳) | |
1594(文禄3) | 千住大橋の架橋 | ||
忠政(2代) | 1604(慶長9) | 備前堀の開削 (1585〜1618 34歳) | 1603 江戸幕府開幕 |
忠治(3代) (ただはる) |
1618(元和4) | 赤山源長寺を菩提寺とする忠次の次男(1592〜1653 62歳) | |
1621(元和7) | 利根川改修と新川開削 | ||
1624(寛永1) | 荒川川瀬の改修 | ||
1625(寛永2) | 権現堂川下流に江戸川を開削 | ||
1629(寛永6) | 赤山陣屋を設ける | ||
見沼溜井の造成・八丁堤の築堤 | |||
1638(寛永15) | 勘定奉行となる | ||
1642(寛永19) | 関東郡代となる | 1657 明暦の大火 | |
忠克(4代) (ただかつ) |
1660(万治3) | 幸手用水の開削 (1617〜1665 49歳) | |
びわ溜井用水の開削 | |||
葛西用水の開削 | |||
忠常(5代) (ただつね) |
1666(寛文6) | 両国橋の修築 (1649〜1680 32歳) | |
1672(寛文12) | 多摩川通り六号橋の修築 | ||
千住大橋の掛け替え | |||
1673(寛文13) | 赤山源長寺境内に頌徳碑を建てる | ||
忠篤(6代) (ただあつ) |
1692(元禄5) | 飛騨郡代を兼務する (1669〜1697 29歳) | |
忠順(7代) (ただのぶ) |
1700(元禄13) | 深川埋め立て普請工事 (?〜1712) | |
永代橋の架橋 | |||
1704(宝永1) | 本所堤防の修築 | ||
1705(宝永2) | 浅草川の修復 | ||
1707(宝永4) | 富士山噴火の被害調査、復旧処理 赤山山王社に八幡宮石碑を建てる |
1707/11/23 富士山噴火 | |
忠達(8代) (ただみち) |
天一坊事件の解決 (1690〜1756, 67歳) | 1716 享保の改革 | |
1719(享保4) | びわ溜井用水の改修, | ||
忠辰(9代) (ただとき) |
関東郡代とともに奥右筆組頭の次席に僅か4年で致仕した 忠順の長男、忠逵より受け継ぐ (1705〜1767 63歳) |
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忠宥(10代) (ただおき) |
1764(明和1) | 天狗騒動(秩父地方百姓一揆)を解決 (1729〜1772 42歳) | 1764 伝馬騒動 |
1765(明和2) | 勘定奉行となる | ||
忠啓(11代) | 1775(安永4) | 勘定吟味役となる 郡山15万石の松平甲斐守吉里の六男 |
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忠尊(12代) (ただたか) |
1784(天明4) | 勘定吟味役となる (?〜1794) | |
1787(天明7) | 天明の大飢饉 江戸打ちこわしの収拾 江戸貧民の救済措置 |
1782 天明の大飢饉 | |
1792(寛政4) | 関東郡代を罷免される,赤山の陣屋は取り壊され、家臣もあちこちへちらばった | ||
忠善(13代) (ただよし) |
1803(享和3) | 大和国郡山城に蟄居。のち享和3年に許されて江戸の松平保光の屋敷に移され、35歳で死去 | 注)13代以下は追加した |
忠盈(14代) (ただみつ) |
伊奈家歴代の勲功は大きく、幕府は忠盈(17歳)に伊奈家の名跡を継がせ、武蔵国秩父と常陸国信太郡内の内1,000石を受け小普請に任ぜられ、旗本として幕末にいたった。 | 1867 明治元年 |