伊奈氏屋敷跡・勝願寺・願成寺
伊奈氏屋敷跡 spacer 解説板

忠次が築いた屋敷跡
伊奈氏屋敷跡 (埼玉県指定史跡)】
 ここは、代官頭伊奈忠次が築いた屋敷跡です。伊奈氏は信州伊那郡(今の長野県)の出身で、忠次の祖父忠基の代に松平広忠(徳川家康の父)仕え、三河国小島(今の愛知県西尾市)の城主となりました。
忠次は善政をしき、特に豊臣秀吉の小田原攻めには、主君徳川家康の命で兵糧の輸送、荒廃した伊豆国(今の静岡県)の農村復旧などにあたり功績を挙げました。
 天正18(1590)年、徳川家康が関東へ入国した時、忠次はこれまでの功績によって、三河国小島の旧領と武蔵国小室・鴻巣領1万3千石(1万石とも言われている)を与えられました。代官頭となった忠次は、中世以来城郭として使われてきたこの地(小室丸 ノ内)に陣屋を構えて、関八州(今の関東地方)の天領(幕府直轄地)を治め、検地の実施、新田開発、中山道その他の宿駅の整備、備前堤・川島大囲堤の築堤などに大いに活躍しました。さらに江戸幕府成立後は、関東及び東海道筋の支配にも参画するようになりました。
忠次及び長男忠敬の死後は、次男忠治が元和4(1618)年に築いた赤山陣屋(今の川口市)に関東支配の拠点が移り、この地は忠政の次男忠隆系の旗本伊奈氏の屋敷となりました。
屋敷跡の規模は、東西約350m、南北約750mで、当時を偲ばせる土塁や堀が各所に良好な状態で保存されているほか、見通しを悪くするためにわざと折り曲げた道などが現存しています。裏門跡と呼ばれる場所からは、発掘調査の結果、障子堀が検出されました。また、「表門」・「裏門」・「蔵屋敷」・「陣屋」などの呼称も伝承として残っています。
 史跡内には民有地が多くあります。無断で立ち入らないようお願いします。史跡は私たちの歴史を知る大切な場所です。遺構を壊したり、無断で草花・樹木の採集・伐採はしないようお願いいたします。
 平成23年3月 伊奈町教育委員会・埼玉県教育委員会 (写真左の解説板より)

史跡指定反対の看板

赤山城趾(陣屋=川口市)を掲載した縁で、忠次、忠治の屋敷と墓を訪れる気になりました。
屋敷跡の住所は埼玉県北足立郡伊奈町大字小室字丸山185番地ほか。位置は、大宮駅からのニューシャトル「丸山」駅の東南一帯になる。郭、土塁、堀等が残存。障子堀が発掘されたが、現在は埋戻して保存されている。
来てみて、まず、驚いたのは荒れていることです。上の左の写真の景色で、民家と草地しか見られない。赤山では、地域の皆さんが庭まで開放して迎えてくれましたが、ここでは見学者が勝手にうろつかれるのは迷惑らしい。それが右の写真、古い看板ですが「(防犯カメラ設置) 告! 住民無視の一方的な史跡指定と保存管理計画は (以下判別不能) 丸の内住民一同」 と読めます。残念ながら、早々に退散することにしました。
願成寺は東北東に400m程にあるので徒歩でも見学できる。

伊奈忠次・忠治墓
伊奈忠次 忠治墓 (埼玉県指定史跡)】  
           大正11年3月29日指定
 伊奈忠次は三河国幡豆郡小鳥の城主伊奈忠家の嫡子として生まれた。初め徳川家康の近習となり、のちに関東郡代に任ぜられ、武蔵国鴻巣・小室で一万石を賜わった。関東各地を検地し桑・麻・楮の栽培や水利の便を開く等、関八州は彼によって富むといわれた。茨城県結城地方特産の紬織(柳条紬)もその奨励によるものである。
 彼の功績は江戸幕府財政の基礎を定めたことで、その検地検税のオ法、すなわち、地方の方式は伊本流と云って江戸幕府地方たの基本となった。慶長4年(1599)従五位下に叙せられ備前守に任ぜられた(のち大正元年正五位を追贈)。慶長15年(1610)61歳(57歳とも)で没した。法号は藤林院殿秀誉源長久運大禅定門。

 伊奈忠治は忠次の次子。元和4年(1618)関東郡代を嗣ぎ、武蔵国赤山(現埼玉県川口市)に陣屋を構え七千石を領し、父忠次と同じく新田の開拓、河川の付け替え、港湾の開さく等に努めた。その在任は35年の長さに及び、幕府の統治体制確立の重要な時期に郡代兼勘定奉行として民政に尽くした功績はきわめて大きい。承応2(元年とも)年(1653)6月、62歳で没した。法号は長光院殿東誉源周大居士。
  平成元年3月 埼玉県教育委員会 鴻巣市教育委員会 (墓所前の解説板より)
 関連事項:三代目以降の墓所川口市の源長寺

勝願寺 鴻巣市本町8-2-31
浄土宗  天照山良忠院
寺領30石の御朱印状を拝領し、関東十八檀林の一つとして数多くの末寺を擁していた。
勝願寺本堂

伊奈熊蔵忠勝の墓 伊奈熊蔵忠勝の墓 (町指定文化財)】

  忠勝は、伊奈町大字小室字丸ノ内の地に陣屋を構えて関東一円の地を支配した伊奈忠次(備前守・関東代官頭)の孫にあたり、慶長16年(1611)に生まれ、熊蔵の名を世襲した。幼少のときから徳川家光に近侍して相手役を務めいたが、元和4年(1618)父・忠政(筑後守)の病没によって遺領を相続し、伊奈家の当主となった。しかし、翌5年8月16日病のため若干9歳にして急逝、法名を「廓然院殿見桐生蓮信男」と号し、願成寺に葬られた。
 この墓は、昭和43年3月1日に町指定文化財となっている。
  なお、忠勝の没後、当家は断絶となったが、名門伊奈家の断絶を惜しんだ幕府によって、新たに旧領のうちの小室郷一円の地(旧丸山村、別所村、宿村、本村・小貝戸村、中萩村、柴村石高1,186余)が忠政の末子・忠隆(5歳)に与えられ、小室領伊奈家が復興した。
  関東代官頭(郡代)の要職は、赤山(現・川口市)に伊奈家の別家を創設した忠治が継ぎ、以後赤山韻伊奈家においその職は世襲的に受け継がれた。
 平成2年3月  伊奈町
 関連事項:三代目以降の墓所

願成寺 伊奈町大字小室1821
浄土宗 八幡山地蔵院  本尊は阿弥陀如来
創立は永正2年(1505)如忠上人が小室に小庵室
(阿弥陀堂とも)建て、その後、文禄3年(1594)伊奈忠次が当地に移し、寺号を願成寺と定め、勝願寺(鴻巣市)の末寺となった。
願成寺本堂

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