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【伊奈忠次 忠治墓 (埼玉県指定史跡)】 大正11年3月29日指定 伊奈忠次は三河国幡豆郡小鳥の城主伊奈忠家の嫡子として生まれた。初め徳川家康の近習となり、のちに関東郡代に任ぜられ、武蔵国鴻巣・小室で一万石を賜わった。関東各地を検地し桑・麻・楮の栽培や水利の便を開く等、関八州は彼によって富むといわれた。茨城県結城地方特産の紬織(柳条紬)もその奨励によるものである。 彼の功績は江戸幕府財政の基礎を定めたことで、その検地検税のオ法、すなわち、地方の方式は伊本流と云って江戸幕府地方たの基本となった。慶長4年(1599)従五位下に叙せられ備前守に任ぜられた(のち大正元年正五位を追贈)。慶長15年(1610)61歳(57歳とも)で没した。法号は藤林院殿秀誉源長久運大禅定門。 伊奈忠治は忠次の次子。元和4年(1618)関東郡代を嗣ぎ、武蔵国赤山(現埼玉県川口市)に陣屋を構え七千石を領し、父忠次と同じく新田の開拓、河川の付け替え、港湾の開さく等に努めた。その在任は35年の長さに及び、幕府の統治体制確立の重要な時期に郡代兼勘定奉行として民政に尽くした功績はきわめて大きい。承応2(元年とも)年(1653)6月、62歳で没した。法号は長光院殿東誉源周大居士。 平成元年3月 埼玉県教育委員会 鴻巣市教育委員会 (墓所前の解説板より) 関連事項:三代目以降の墓所川口市の源長寺 勝願寺 鴻巣市本町8-2-31 浄土宗 天照山良忠院 寺領30石の御朱印状を拝領し、関東十八檀林の一つとして数多くの末寺を擁していた。 |
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【伊奈熊蔵忠勝の墓 (町指定文化財)】 忠勝は、伊奈町大字小室字丸ノ内の地に陣屋を構えて関東一円の地を支配した伊奈忠次(備前守・関東代官頭)の孫にあたり、慶長16年(1611)に生まれ、熊蔵の名を世襲した。幼少のときから徳川家光に近侍して相手役を務めいたが、元和4年(1618)父・忠政(筑後守)の病没によって遺領を相続し、伊奈家の当主となった。しかし、翌5年8月16日病のため若干9歳にして急逝、法名を「廓然院殿見桐生蓮信男」と号し、願成寺に葬られた。 この墓は、昭和43年3月1日に町指定文化財となっている。 なお、忠勝の没後、当家は断絶となったが、名門伊奈家の断絶を惜しんだ幕府によって、新たに旧領のうちの小室郷一円の地(旧丸山村、別所村、宿村、本村・小貝戸村、中萩村、柴村石高1,186余)が忠政の末子・忠隆(5歳)に与えられ、小室領伊奈家が復興した。 関東代官頭(郡代)の要職は、赤山(現・川口市)に伊奈家の別家を創設した忠治が継ぎ、以後赤山韻伊奈家においその職は世襲的に受け継がれた。 平成2年3月 伊奈町 関連事項:三代目以降の墓所 願成寺 伊奈町大字小室1821 浄土宗 八幡山地蔵院 本尊は阿弥陀如来 創立は永正2年(1505)如忠上人が小室に小庵室 (阿弥陀堂とも)建て、その後、文禄3年(1594)伊奈忠次が当地に移し、寺号を願成寺と定め、勝願寺(鴻巣市)の末寺となった。 |
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