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本尊 十一面観音菩薩立像
足立観音霊場の20番札所
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始めて訪れたのだが、本堂のでっかいことに驚いた。近隣の寺院の中ではおそらく一番だろう。明治以降、いろいろあったようだが、名残が山門に感じられる。
出来上がったばかりの阿弥陀堂もでっかい(写真3段右)。
他には、弁天堂、仏舎利殿金亀舎利塔、閻魔堂が点在する。三重之塔も近隣に三つほど見るが、比較的新しいように感じる。
写真右端に写っている弘法大師修行像もデッカイ、特集で60基ほど掲載があるけれど総尺十二尺と言うから21.6メートルは普通の倍以上ある。
阿弥陀堂 |
左は弁天堂 中央は三藏法師遺骨とゆかりのある仏舎利殿金亀舎利塔 | 閻魔堂 |
左から、目疾地蔵(目に味噌を塗る)、六地蔵、子育て地蔵 | 梵字馬頭観音塔 | 巨大弘法大師修行像 →像特集 |
閻魔堂内の閻魔大王像 →閻魔大王特集 左から、宝篋印塔群、平和観音 |
宝篋印塔(ほうきょういんとう) 宝篋印陀羅尼(宝篋印心咒経/ほうきょういんしんじゅきょう)を納めたことによる。ただし、他のものを納めていても同形のものは、すべて宝篋印塔と呼ぶ。本来的には、基礎に宝篋印心咒経の文字を刻む。 五輪塔と同じく密教系の塔で、鎌倉期以降宗派を問わず造立されるようになった。 蕨市指定文化財の宝篋印塔は、宝永2年(1705)で高さが3.9m、三学院十一代住職秀鑁(しゅうばん)が願主となり造立されたもの。もう一つは、寛政9年(1797)銘で蕨宿の町田氏により造立されたもので、高さが2.2mある。 仏舎利殿金亀舎利塔 孫悟空、西遊記で尊崇され、親しまれている玄奘三藏法師は、今から千二百前中国唐の太宗の時長安の王華宮で遷化されました。その後、度々の戦乱のため、その霊骨は数回移されたので、その後長い間埋骨の場所すらまったく不明とされて居りました。ところが昭和17年当時南京に駐屯していた、高森部隊が整地作業の際石棺を発見しました。 中から三百余点の宝石、文献、霊骨が現れ更に調査研究したところ、正しく三藏法師の霊骨と副葬品であることが確認されたので高森部隊はこれらのすべて、中国国民政府に引渡しました。 国民政府は戦乱中ではありましたが、霊骨を最高の禮を盡してお迎えすると共に間もなく非常な苦労をして当時数百億円という巨費を投じて南京城外の玄武山上に大陸式霊骨塔を、建立したのであります。 中国民衆がいかに三藏法師を深く尊敬し佛心に厚いかを物語るもので私共日本人としても大いに畏敬の念を深くするものであります。 玄武山上の霊骨塔落慶式の後国民政府は偉大なる世界の覚者玄奘三藏法師の霊骨の一部を日本に分贈する旨の申出が日本政府にあり日本佛教連合会の代表として、前三学院住職第三十世倉持秀峰和尚が、三藏法師の頂骨を日本国に捧持し丁重に慰霊法要を営みました。大砂漠や天山劔路を突破し、あらゆる困難を克服して遂に一年有余の後、天竺に入り釈尊ゆかりの佛跡を巡拝し17年間勉学の後帰国、更に4年の歳月を要し「大般若波羅密多経」600巻の訳経に成功するなど偉大なる世界の覚者玄奘三藏法師の霊骨は先師の遺訓を守り、金亀舎利塔内の水晶の壺の中に安置佛舎利殿に奉安され奉仕の遺徳の顕彰に努めることになりました。 佛縁により、玄奘三藏法師の霊骨は遠く台湾の景勝の地、台中日月潭玄奘寺に三学院住職三十世倉持秀峰和尚の分骨と共に奉安されています。 当山佛舎利殿金亀舎利塔内に奉安されている玄奘三藏法師の霊骨の真下に篤信者のかたの納骨(含分骨)が受け入れられる設備が整っております。 (境内案内板より) 【関連情報】 日本へ渡った頭骨は、当初芝増上寺に安置されましたが、その頃の東京は空襲の被害が広がり、一時埼玉県蕨市の三学院に移され、さらに岩槻の慈恩寺へと移され、戦後に正式に奉安されてます。その後、慈眼寺から台湾の玄奘寺(昭和30年)や奈良の薬師寺(昭和56年)へも分骨されています。 三学院梵字馬頭観音塔 蕨市指定文化財 この石塔は、塔身正面に、梵字馬頭観音「ナム・カヤグリーバ」(南無・馬頭観世音)を、骨太に陰刻し、左右側面、背面に刻銘を有する。 基礎正面を小判形に彫りくぼめて、馬の全形を斜めから生きいきと表現され、彫技の冴えを示している。 銘文から、江戸時代後期、寛政12年(1800)2月に「小宮忠治郎、徳丸馬右ヱ門」両氏が世話人となって、蕨宿の馬持講中によって、宿場の安全息災を祈って造立されたものであろう。 また、三学院が、地域札所足立坂東20番であることをこの石塔は示している。 石塔本尊の馬頭観音を梵字で表現しており、例の少ない貴重な石造物である。 昭和62年3月 蕨市教育委員会 (境内案内板より) 地蔵石仏(目疾地蔵・めやみじぞう) 蕨市指定文化財(昭和61年9月29日指定) この地蔵尊は、万治元年(1658)に念仏講を結んだ13人の人々が、「この世」と「あの世」の安楽を願って造立したものです。基礎の上に一石から蓮台と地蔵菩薩立像と舟形光背を彫り上げており、高さが約1.9mある大きな地蔵尊です。 一般に寛文年間(1661〜73)をさかのぼる近世石造物は少なく、一一部欠けているところはありますが、古い様式を今に伝える貴重なものです。 この地蔵尊は、「目疾地蔵」とよばれており、目に味噌を塗ると目の病気が治る、あるいは目の病気にかからないと言われており、現在でも信仰の対象となっています。 もとは三学院境内の墓地入口にありましたが、最近になって現在地に移されました。 蕨市教育委員会 (境内案内板より) |