万年寺(ばんねんじ) さいたま市見沼区片柳1-155 曹洞宗
【万年寺と伊沢弥惣兵衛】
山号は長昌山 本尊は釈迦如来
寺の開創は永正6年(1509)といわれ、天正19年(1591)に徳川家康から寺領20石を拝領した古刹です。江戸時代初期の見沼溜井造成に際しては寺域が水没したため伽藍を移したと伝えられています。
江戸時代中頃、溜井の干拓及び見沼代用水開削工事に際して工事を担当した伊沢弥惣兵衛が詰め所を当寺に設けたといいます。この伊沢弥惣兵衛と見沼の竜神にまつわる伝説がたくさん残されています。
見沼東縁代用水関係者は、文化14年(1817)に弥惣兵衛の頌徳碑(写真下・掲示文は下端)を境内に立て、事績をしのんでいます。
境内にはこの外、こぶ地蔵、庚申塔、当寺の中興開祖の墓などあります。
幕末から明治にかけては寺子屋が開設され村の子弟の教育に当たりました。
さいたま市教育委員会掲示物より
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山門 |
弥惣兵衛の頌徳碑(説明文は下端に) |
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「見沼の龍神灯」=見沼の伝説=
将軍吉宗の命を受けた伊沢弥惣兵衛為永は、このあたりの見沼を干拓し、利根川から代わりの水を引く工事をしていました。ある晩のこと、為永は夢をみました。見沼の主で龍神という美しい女が現れ、私の住む所がなくなる、新しい住家を探すまで工事を中止してほしい・・・・・・と言います。来春の稲の作付けに間に合わせるために工事は一日も休めません。そのうち工事に負傷者や障害が続出し、為永も病に倒れてしまいました。するとまた夢に先ほどの美女が現れ、お前の病を治してあげるから、私の頼みも聞いてほし・・・・・・と言いました。困った為永は、龍神を慰めるため龍神灯をお供えしました。この龍神灯は、誰がつけるのかわかりませんが、為永の宿舎にしていた片柳の万年寺の大松や、氷川女体神社の大杉に、あかかと、ともったということです。
平成3年3月 さいたま市 (国昌寺近くの掲示物より)
関東郡代伊奈氏のいた赤山城にまつわる伝承では、庭園の池で伊奈氏が舟遊びを楽しんでいたところに山蛇が来て、見沼の竜神であると名乗り、住処を追われた怨みによって伊奈家に災いをもたらすと告げたという。 |
伊沢弥惣兵衛、見沼自然公園内 |
「見沼の龍神灯」の解説板、国昌寺橋の見沼代用水東縁に立つ
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【弥惣兵衛の頌徳碑説明文】
この碑は、見沼代用水を開いた功労者・井澤弥惣兵衛をたたえたものです。
井澤弥惣兵衛は、江戸時代の寛文3年(1663)に紀伊国(和歌山県)溝口村(海南市)に生まれ、土木技術に才能を発揮し紀州藩主5代にわたり仕えました。その後、八代将軍徳川吉宗に招かれ、幕府勘定方に着任し、享保12年(1727)から埼玉県に広がる見沼の開発に着手しました。見沼の開発は、
利根川の水 を下中条(行田市)から引き入れ、距離60Kmにおよぶ見沼代用水路を掘り進め周辺に新たな水田を開くという大がかりのものてした。着手してから半年という短期間で用水路を掘りあげたと伝えられています。なお、弥惣兵衛は見沼代用水の工事のため萬年寺境内に工事事務所を置いたといいます。
また、見沼代用水と芝川を利用して江戸とを結ぶ水運の便をはかり、米をはじめとする物資の輸送を効果的に行えるようにしました。浦和市にある国指定史跡の閘門(こうもん)式運河・
見沼通船掘が広く知られています。
この碑のほか利根川からの取水口近くに
井沢祠、白岡町柴山
常福寺には分骨による墓石があり、井澤弥惣兵衛の功績を現在に伝えています。現在でも見沼で工事を行う際にはこの碑に参拝して工事の安全祈願をするといわれています。
なお、弥惣兵衛は元文3年(1738)に75歳で没し、江戸麹町(東京都千代田区麹町)の心法寺に葬られています。
平成8年2月吉祥 長昌山 萬年寺
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