左の石祠は、いつ造立されたかは不明ですが、正面に水神宮と刻まれています。かっての浮間は水害と共存してきましたから水難や水害除けに水神宮が敬われていたことは想像できます。しかし、この水神宮にも災難が訪れた。写真右は従来の水神宮の姿です。屋根部分が欠けて痛々しいけれど、苔むして時代を感じます。そして、左は2006年2月21日以後の姿です。後ろの建物を建てる際に振動でばらばらになってしまい組み立て直したのだが、屋根のてっぺん部分を手前に持ってきて接着してしまった。後日、私が直そうとしてみたがしっかりくっついていてダメでした。 【関連事項】 近隣の新河岸川(昔の荒川)沿いには七つの水神宮があります。昔の村落単位で一村一宮ありました。それら全部を掲載してあります。 近隣の水神宮一覧 |
左側の像は、干支の庚申の日に徹夜して健康長寿を願う信仰にかかわって、天保9年(1838)6月に浮間村講中18人が造立したものです。正面には庚申信仰を象徴する青面(しょうめん)金剛立像が浮き彫りされています。 【関連事項】 庚申待ち供養塔の解説 青面金剛: 顔の色が青い金剛童子。大威力があって病魔・病鬼を払い除く。六臂三眼の忿怒相をしている。民間で行われる庚申会に本尊として祀られる。 右の馬頭観音は文化10年(1813)に浮間村講中の35人が往来する馬の安全を祈って造立したものです。 馬頭観音の顔は左右にもあり3面6臂(腕)。 江戸時代の浮間には馬が5頭いたが牛はいない。像の裏手に王子運送があったのも何かの縁、その後(2007年)、王子運送は撤退して跡地に巨大なマンション計画が実行中です。 |
左の供養塔は、文政元年(1818)7月、浮間村の林蔵が西国秩父板東百ヶ所の観音霊場、四国八十八ヶ所の弘法大師霊場を巡拝した記念に造立したものです。道行く人の助けとなるよう「右 いゝつか(飯塚)川口道」 「左 浮間村」という道標名も刻まれています。
(北区) 実は、掲載の後日談があるのです。掲載してから1週間ほど過ぎて、地域の常連さんが掲示板へ書いてくれました。上記の北区教育委員会解説の林蔵さんは建立者で、実際に巡拝したのはその祖父で伴右衛門さんでした。その書き込みは下枠にコピーしました。 伴右衛門は行としての巡拝を完遂するのに3年の歳月を費やした。四国八十八所巡拝の行程だけでも450里(1,800Km)あると言われるのでそのすごさが分かる。ちなみに、芭蕉の奥の細道は2,600Kmを5ヶ月間でした。 弘法大師の巡拝する御姿は麻の衣にあじろ笠。背に荷俵三衣、足中草履をめしたまい、首にかけたる札ばさみ、たて六寸に巾二寸、金剛杖を右につき、左の御手に数珠を持ち−−と伝えられている。巡拝の心得としては、道中は常にお大師様と共にあると思い、御宝号(南無大師遍照金剛:なむだいしへんじょうこんごう)を唱え、または念じていること。 【関連事項】 尾熊源左衛門巡拝供養塔|弘法大師像特集|江戸時代の浮間村 |