善光寺(川口市) 埼玉県川口市舟戸町1-29 電話:048-222-2124
弘法大師像
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釈迦像(タイ国製)
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涅槃像
【善光寺 施設案内】  →足立観音霊場一覧

弘法大師像、ご住職話では、この寺のオリジナルだそうだ。一般的な真言宗の寺にある弘法大師像は巡拝する御姿、「麻の衣にあじろ笠、背に荷俵三衣、足中草履をめしたまい、首にかけたる札ばさみ、たて六寸に巾二寸、金剛杖を右につき、左の御手に数珠を持ち」の形がほとんどです。この像は笠はかぶっていませんが、肩紐で背に背負っています。始めて見る大変珍しい姿像です。そういえば、お顔も先代のご住職に似ているとか言われます。
台座の後ろには昭和9年(1934)10月奉鋳とあります。もしかして、これは鋳物製ですか?、だとすると鋳物の町・川口のこだわりかも知れない、それも嬉しいことです。

【関連事項】
弘法大師像は寺によって姿が微妙に違っています 大師像を集めたページ

弘法大師像アップ

左の写真は、平成5年(1993)に安置された遊行像と台座に刻まれている。ご住職の話によると、タイ国でつくられたもので、国外へ持ち出すのが大変だったらしい。タイのお釈迦様は日本のと顔かたちが違っているが、川口の周辺にはタイ人も多いから参詣に訪れて親しみがあるらしい。飾りはタイ式にしてあるそうだ。
そう言えば、タイの大使館から善光寺の連絡先の問合せあった記憶がある。

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善光寺 本堂内

本尊
川口善光寺の本堂内部です。善光寺は荒川のスーパー堤防が完成後、建て直しが決まっているので、これは仮本堂と言うことになる。
正面に安置されているのは阿弥陀如来三像らしい。アップしたのが下の写真だが 印相はハッキリしない。写真両端に坐している像は、右が弘法大師、左は興教大師覚鑁上人。
堂内の左には不動堂があります(写真下左) 。不動明王が三体安置されている。右端の像は小さな厨子に納められています。堂内にはたくさんの仏像があります。

  観音霊場次の25番札所川口市文化財リスト
本堂内specer釈迦如来立像
空海(弘法大師)specer 賓頭盧尊者specer 弁才天
写真は左から、弘法大師、びんずる尊者、弁財天
善光寺
建久6年(1195)、定尊が信濃の善光寺の阿弥陀三尊を模造して安置し開創した。信濃の善光寺と同様「一光三尊阿弥陀如来」を本尊とする。信濃の善光寺と同じ御利益があるとされ、江戸市民は江戸近郊で手軽に善光寺参りができるとあってこぞって参詣した。 江戸市民の信仰をあつめた川口善光寺も昭和43年3月23日に災禍により焼失してしまい、三尊のうち勢至菩薩だけが残った。
現在、荒川土手のスーパー堤防工事が進められており、完了するのを待って建て替えの大工事が始まるようです(写真下が完成予想図)。
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完成予想図
墓地
上の完成予想図によれば、左の写真の墓地は左側の土手の高さまで埋め立てられることになる。そして、その上に本堂が建てられるようだ。
2011年4月現在、予想図の施工範囲とある場所に墓地を建設して、そこへ写真左の墓地を移している。ザッと見て、8割ぐらい移設されている。その後、墓地に土を盛る作業になるので、これは完成がいつになるのか想像も出来ない大事業だ。

 当寺は足立坂東観音霊場の24番札所
 →札所一覧
 →足立観音霊場の善光寺マップ

安藤広重 川口のわたし善光寺

川口のわたし善光寺
広重「江戸百景めぐり」に登場する「川口のわたし善光寺」は、荒川を挟んで赤羽側から向こう岸を望んだ絵として有名です。
※「江戸百景めぐり」は浮間図書館にあり。 広重の「江戸百景めぐり」には北区では王子近辺が5枚書かれており、以北となると唯一左の絵の「川口のわたし善光寺」の1枚だけである。広重の絵には筏(いかだ)が描かれているが、昭和20年代でも見られた光景で、荒川の水運を利用して秩父の材木が千住の材木問屋まで運ばれた。
江戸市民は江戸近郊で手軽に善光寺参りができるとあってこぞって参詣し、とくに本尊の顔が拝める「ご開帳」の日は参詣客が大勢押し掛けてたいそう賑わったという。

絵では、善光寺は上部黄色の四角の左にある、右下の「渡し船」1艘の他はすべて「筏」である。
荒川(現在の新河岸川)の渡船場は新荒川大橋のすぐ上流にありました。今は案内板が立っています(内容は下記に掲載)。

現代の渡し場跡

現在の渡し場付近


対岸の土手中央に緑の三角屋根をしたのが川口善光寺。 広重の浮世絵とは様変わりした世界です。江戸名所図会では江戸時代は広大な敷地と伽藍だったようです。

【参考資料】
下の絵は荒川知水資料館に展示されている「岩淵と川口を結んでいた舟橋」(川口広報課提供)
明治38年(1905)に架けられ、昭和3年(1928) 9月新荒川大橋が開通するまで舟橋通行料は一人1銭。川は新河岸川です。現在の荒川は大正時代から昭和5年まで20年掛けて新たに掘削したものです。
昔の渡し場風景図 新荒川大橋

左の図が昔の渡し場、上の写真が現在の渡し場で新荒川大橋です。左図の橋から200mほど下流に架かっています。
江戸名所図会
【江戸名所図会】 善光寺のところに載っている図と文章を写す。
川口善光寺 川口村渡し場の北にあり。天台宗にして平等山阿弥陀院と号す。本堂には阿弥陀如来・観音・勢至一光三尊を安ず。寺伝に日く、往古定尊(鎌倉初期の僧)といへる沙門あり。法華経を誦するの外他なし。建久五年(1194)の夏、一時(あるとき)睡眠のうちに信州善光寺如来の霊告を得ることあって、ただちにかしこにまうで、正しく如来の聖容を拝す。示現によって、十方に勧進し財施を集め、金銅をもって中尊阿弥陀仏を鋳奉る。時に建久六年己卯(1195)五月十五日なり(仏の御胸中には、三寸五分の水晶の宝塔をこめ、うちに仏舎利四十八顆を収めたてまつる)。同六月二十八日・二十九日に脇士(きょうじ)観音・勢至の二尊を鋳奉る。つひに堂字を建立して善光寺と号す(御告げによって、四十八首の間四十八度の開眼供養を修行しけるに、本師如来降臨あって、当仏の頂を摩(な)でて、ともに開眼したまふよし、当寺縁に詳らかなり)。

宝篋印塔(ほうきょういんとう)

宝篋印塔speser宝篋印塔説明図

善0光寺の宝篋印塔

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川口市指定有形文化財(考古資料)
(昭和52年5月10日指定)
宝篋印塔は、もとは宝篋印陀羅尼経を納める塔を意味し、法隆寺の国宝「橘婦人厨子」(奈良時代前期)の扉絵にも描かれています。鎌倉時代の中頃からは、墓碑や追善塔に転化されるようになりました。その様式には、「関東式」と「関西式」とがあり、関東式は、反花座を有し、その上に基礎台座、塔身、笠、相輪が重なり、笠の四隅には隅飾突起が見られます。
  この「善光寺の宝篋印塔」は、台座にこの時代特有の格狭間が彫られ、向かって左側に「元享二壬成年造立」、右側に「妙序上人八月二十三日」の文字が刻まれています。反花座の連弁も豊満な造りとなっており、塔身には、輪郭の中に梵字で金剛界四払種子が彫刻してあります。妙序上人は、浄土宗の尼僧ではないかと考えられています。上部の相輪が欠如していることは惜しまれますが、県内でも数少ない鎌倉時代の作品として貴重な存在です。
  川口市教育委員会(現地掲示)

 場所は、墓地に入りすぐ右折した奥です。