善光寺 本堂内 |
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川口善光寺の本堂内部です。善光寺は荒川のスーパー堤防が完成後、建て直しが決まっているので、これは仮本堂と言うことになる。 正面に安置されているのは阿弥陀如来三像らしい。アップしたのが下の写真だが 印相はハッキリしない。写真両端に坐している像は、右が弘法大師、左は興教大師覚鑁上人。 堂内の左には不動堂があります(写真下左) 。不動明王が三体安置されている。右端の像は小さな厨子に納められています。堂内にはたくさんの仏像があります。 観音霊場次の25番札所|川口市文化財リスト |
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写真は左から、弘法大師、びんずる尊者、弁財天 | ||
建久6年(1195)、定尊が信濃の善光寺の阿弥陀三尊を模造して安置し開創した。信濃の善光寺と同様「一光三尊阿弥陀如来」を本尊とする。信濃の善光寺と同じ御利益があるとされ、江戸市民は江戸近郊で手軽に善光寺参りができるとあってこぞって参詣した。 江戸市民の信仰をあつめた川口善光寺も昭和43年3月23日に災禍により焼失してしまい、三尊のうち勢至菩薩だけが残った。 現在、荒川土手のスーパー堤防工事が進められており、完了するのを待って建て替えの大工事が始まるようです(写真下が完成予想図)。 【関連記事】 善光寺の石材店 |
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上の完成予想図によれば、左の写真の墓地は左側の土手の高さまで埋め立てられることになる。そして、その上に本堂が建てられるようだ。 2011年4月現在、予想図の施工範囲とある場所に墓地を建設して、そこへ写真左の墓地を移している。ザッと見て、8割ぐらい移設されている。その後、墓地に土を盛る作業になるので、これは完成がいつになるのか想像も出来ない大事業だ。 当寺は足立坂東観音霊場の24番札所 →札所一覧 →足立観音霊場の善光寺マップ |
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安藤広重 川口のわたし善光寺 |
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広重「江戸百景めぐり」に登場する「川口のわたし善光寺」は、荒川を挟んで赤羽側から向こう岸を望んだ絵として有名です。 ※「江戸百景めぐり」は浮間図書館にあり。 広重の「江戸百景めぐり」には北区では王子近辺が5枚書かれており、以北となると唯一左の絵の「川口のわたし善光寺」の1枚だけである。広重の絵には筏(いかだ)が描かれているが、昭和20年代でも見られた光景で、荒川の水運を利用して秩父の材木が千住の材木問屋まで運ばれた。 江戸市民は江戸近郊で手軽に善光寺参りができるとあってこぞって参詣し、とくに本尊の顔が拝める「ご開帳」の日は参詣客が大勢押し掛けてたいそう賑わったという。 絵では、善光寺は上部黄色の四角の左にある、右下の「渡し船」1艘の他はすべて「筏」である。 |
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現在の渡し場付近対岸の土手中央に緑の三角屋根をしたのが川口善光寺。 広重の浮世絵とは様変わりした世界です。江戸名所図会では江戸時代は広大な敷地と伽藍だったようです。 【参考資料】 下の絵は荒川知水資料館に展示されている「岩淵と川口を結んでいた舟橋」(川口広報課提供) 明治38年(1905)に架けられ、昭和3年(1928) 9月新荒川大橋が開通するまで舟橋通行料は一人1銭。川は新河岸川です。現在の荒川は大正時代から昭和5年まで20年掛けて新たに掘削したものです。 |
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左の図が昔の渡し場、上の写真が現在の渡し場で新荒川大橋です。左図の橋から200mほど下流に架かっています。 |
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宝篋印塔(ほうきょういんとう) |
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善0光寺の宝篋印塔川口市指定有形文化財(考古資料)
(昭和52年5月10日指定)
宝篋印塔は、もとは宝篋印陀羅尼経を納める塔を意味し、法隆寺の国宝「橘婦人厨子」(奈良時代前期)の扉絵にも描かれています。鎌倉時代の中頃からは、墓碑や追善塔に転化されるようになりました。その様式には、「関東式」と「関西式」とがあり、関東式は、反花座を有し、その上に基礎台座、塔身、笠、相輪が重なり、笠の四隅には隅飾突起が見られます。この「善光寺の宝篋印塔」は、台座にこの時代特有の格狭間が彫られ、向かって左側に「元享二壬成年造立」、右側に「妙序上人八月二十三日」の文字が刻まれています。反花座の連弁も豊満な造りとなっており、塔身には、輪郭の中に梵字で金剛界四払種子が彫刻してあります。妙序上人は、浄土宗の尼僧ではないかと考えられています。上部の相輪が欠如していることは惜しまれますが、県内でも数少ない鎌倉時代の作品として貴重な存在です。 川口市教育委員会(現地掲示) 場所は、墓地に入りすぐ右折した奥です。 |