山門 静勝寺には山門が二つあり、赤羽駅を向いた北側門(写真上)と、山を上った境内の東向きの門(同下)がある。 北門の真ん中に見えるのが太田道灌堂です。

太田道灌堂
山門 地蔵  観音石像
写真左の地蔵さんは北側山門の前にあります。嘉永6年(1853= 江戸時代)の銘がある。
写真右の像は庫裡の玄関脇にあります。左の灯籠には鷺(サギ)の絵が描かれています。
静勝寺の弁財堂 寺の背後の谷にあった江戸名所図会にも載る亀ヶ池から出土したとされる弁財天を祀っている。約25cmの八臂(ひ=腕)の坐像で、江戸中期の作。建物は元の本堂を縮小移築したもの。毎年、4月の第1日曜日に開帳されると聞きました。下の弁財天像の写真はYoukoさんより提供いただきました。
なお、亀ヶ池は明治まで灌漑用溜池として利用されていたが、明治末年埋立てられた。跡地に小さな池が残り、そこに『亀池弁天』を祀るが、本尊は静勝寺の弁財天を勧請したもので同じ姿をしている。その弁天大祭(4月の第1日曜日)は静勝寺住職が別当を務める。現在弁天通りと呼ばれ、界隈の商店街の名前にも使われている。
弁天堂が新しくなりました。前のは下端に。
【関連事項】近隣の弁財天特集

静勝寺の弁財天
静勝寺の弁財天
太田道灌堂
太田道灌堂には道灌の坐像が納められています。道灌の命日7月26日にちなんで26日に開扉されます。
また、命日には近くの商店街も参加した道灌まつりが行われます(写真は下)。
太田道灌(おおたどうかん)は室町時代の武将、江戸城を構築したことで知られ、昔は岩淵5ヶ村(岩淵宿、赤羽、志茂、稲付、袋)を治めていました。同地域の総鎮守として赤羽八幡神社が近くにありますが、そちらとも縁が深い。道灌のことは上記メニューの江戸名所図会に説明があります。
道灌坐像の詳しい説明は北区教育委員会の解説板が立っているので下に写しておきました。
太田道灌像 太田道灌像
太田道灌とヤマブキ
上の絵は、道灌が鷹狩に出て雨に遭い、蓑を借りようとしたとき、若い女に山吹を差し出され、それが 『七重八重花は咲けども山吹のみの一つだになきぞ悲しき』という古歌(『後拾遺集』雑)の意だと後で知り、無学を恥じたという逸話が有名。
 (絵は静勝寺蔵)

右のお守りは、 庫裡の玄関を入ったところで販売している。「亀ヶ池弁財天御守」は300円(買った当時の価格) 大きさ:5×8センチ。
亀ヶ池弁財天御守

太田道灌挫像

北区赤羽西1−21−17
  静勝寺  正面の道灌堂の厨子内には、太田道灌の坐像が安置されています。像は、道灌の命日である7月26日にちなんで26日に開扉されます。道灌堂は道灌の二百五十回忌に当たる享保20年(1735)7月に建立され、厨子は三百五十回忌に当たる天保6年(1835)7月に製作されました。  太田道灌(1432〜1486)は室町時代の武将で、扇谷上杉家に仕えて三十余度にも及ぶ合戦に参加したといわれていますが、長禄元年(1457)4月に江戸城を築いたことで知られています。
 像は頭を丸めており、道灌が剃髪した文明10年(1478)2月頃から同18年に没するまでの晩年の姿を映しています。体には胴服を着けており、左脇には刀一振りが置かれています。正面を向き、右手で払子を執って、左手でその先を支え、左膝を立てて畳座に坐しています。像高は44.5センチ、構造は檜材の寄せ木造りです。頭部は前後二材矧ぎで魚眼をかん入し、差首としています。体内に納入されていた銘札によると、元禄8年(1695)静勝寺第六世の風全恵薫によって像立され、以後、6回の修復が施されました。現在の彩色は、昭和62年(1987)4月に行われた修復によるものです。
 像は、道灌が没してから二百年以上も後に像立されたものでありますが、その風貌を伝える唯一の木造として大変に貴重で、平成元年 1月に北区の指定有形文化財に指定されました。
平成8年3月 北区教育委員会

道灌祭り

 (7月26日の命日には近くの商店街も参加した道灌まつりが行われます)
道灌まつり 道灌まつり
江戸名所図会・静勝寺
江戸名所図会の拡大

上の絵は、【江戸名所図会】の静勝寺が書かれている部分です。
亀の池と五葉の松と書かれている。
静勝寺(稲付城跡)へ上る石段、そのバイパスの坂道など今も同じで変わっていない。江戸時代と同じなのは嬉しい。
上記文章にもある霊亀出たという亀が池は今も存続しており写真を掲載しています。
同じく、道灌手植えの五葉松ですが、図を見た辺りの場所では見当たりません。防火用水のある場所だと思いますので今後も探してみます。

【江戸名所図会】 静勝寺のところに載っている図と文章を写す。
自得山静勝寺(じょうしょうじ) 曹洞宗の禅宗にして稲付にあり。この地は太田道灌(1432〜86)間讌(かんえん・清浄)居跡なり。道灌亡ぶるの後は、狐兎のふしどとなりけるを、中頃萍水浮雲の僧あって、このところに草庵を結び、道灌寺と号す。これ当寺の草創なり。その後太田家より当寺を建立ありて、静勝寺と改む。
  観音堂(本尊十一面観音は越泰澄(おちたいちょう)の作にして、道灌入道崇尊の霊像なり)。
  影堂(道灌入道の木像を置く)。
  五葉の松(南の方、畑の中にあり。道灌手植ゑの由、いひ伝ふ)。亀が池(寺の後ろの方にあり。むかし、この池より霊亀出でけるより号とすといふ)。
  そもそも太田左衛門太夫資長は(あるいは持資と号す。初めの名は源六郎、世に左金吾称す。薙髪して道灌、また春苑・香月・静勝と号す。永享四年壬子(1432)相州<注:相模国>に産まる)源三位頼政十世の孫 備中守 資清入道道信(1411〜92)の子なり。扇谷上杉修理太夫定政(1443〜94)に属し、江戸城に住す。父とともに武毅勇烈関東に覆ふ。ゆゑに人唱んで真灌と称す。また城を築くに巧みなり。東国の城多くは道灌の指図にして、築くところなり。長禄元年(1457)武州江戸城を草創し、城中に燕処の室をいとなみ、静勝と名づく。西を含雪といひ、東を泊船と称す。和漢の書を集むること幾千巻といふをしらず。つねにここにあって詩歌をたしむ。よって城北に菅神を勧請し、祠を建つる(いまの御城西、平川天神これなり)。このとき両上杉(扇谷上杉修理太夫定正・山内上杉兵部少輔房顕(1435〜1446)権をあらそひ、互ひにこばみ、つひに間計をもって定正に道灌をうたがはしむるによって、定正、人をして道灌を浴室に刺し殺さしむ。時に文明十八年丙午(1486)7月26日、年55歳(相州糟屋洞昌寺に葬る)。死にのぞんで云く、「余を害するは定正亡家の兆なり」と。はたして定正、威衰へ再び振るはず。道灌これより先、寛正年中(1486)上洛す。勅してむさし野の勝景を問はしむ。和歌をもって答へ奉る。
  露置かぬ方もありけり夕立の空よりひろきむさし野の原
また平生の眺望をとはしむ。
  わが庵は松原つづき海近く富士の高根を軒端にぞみる
  このとき叡感のあまり、御製をたまふ。
  むさし野は高萱のみと恩ひしにかかる言葉の花や咲くらむ
またあるとき勅して、角田川(すみだがわ)の都鳥をとはしめたまふに、
  年ふれどわれまだしらぬ都鳥角田河原に宿はあれども
   その余の和歌は、家の集に出づるをもつてここに略す。
  (以上)

(文字)懸雲灯 円通閣 潅公祠 梵鯨楼 古城(くぼみ) 楼壕 霊亀池 蟠松岡。
右、当寺の八勝なり。筑波石正倚(せきせいき)の詩あり。
  稲付城跡案内はこちら

普門堂の観音像
普門堂
左の写真は、「普門堂」で斜面を利用して建てられており地下が納骨堂になっている。
堂内に上の写真左の観音様が祀られている。
上右の観音像は、気になっている事があるので静勝寺HPよりお借りした。
『江戸名所図会』では現在の弁天堂が建つ位置あたりには観音堂があり、そこに安置されている 「本尊、十一面観音は越泰澄(おちたいちょう)の作にして、道灌入道(太田道灌のこと)崇尊の霊像なり。」と記述がある。最初は、普門堂にはその観音像が祀られているのではないかと思っていたが、新しい聖観音像だった。
後日、ご住職に話を伺う機会がありました。どうやら『江戸名所図会』 の記述が間違っているようで、実際は写真のように聖観音(一面二臂)であり十一面観音ではないと言われました。一つ発見です。
以前の弁天堂
以前の弁天堂