赤羽八幡神社 (北区赤羽台4−1−6)
赤羽八幡神社

八幡神社全景 神楽殿
左は本殿と右は神楽殿
神社への坂 石段
神社は高台にあり中腹を新幹線のトンネルが通る
遠く平安時代の桓武天皇の御代(720〜806)、東北地方はまだまだ反乱多く、その征伐に桓武天皇は坂上田村麻呂を征夷大将軍として起用し、東北地方の征伐に向かわせた。
途中、坂上田村麻呂はこの赤羽台の地に陣を張り、八幡大神を勧請し、武運長久を祈り無地東北地方を平定した。勧請された八幡大神は武力。知力の御徳高く、後に源氏を始め武家の守り神とされた。赤羽八幡神社は平安初期の代表的な武将であり、国家守護の力とされた坂上田村麻呂によってこの地に開かれた歴史により、武力。知力の「勝負事の神」として、現在では受験生やスポーツ選手などから篤く信仰されている。
(神社の案内板にて)

師団坂側にある社名標柱です。よく見ると「赤羽」の部分は後からはめ込んだものです。以前はなんて書かれていたのか気になりませんか?。 ある人は、在所が袋村だから「袋村」または「村社」説です。村社なら直さなくても通用しますから、私は「岩淵」と書かれていたと思うのです。さもなくば、良く目にするのが
「村社」、「郷社」、「県社」です 。
specer

写真左は稲荷社で祠の中には一対の白磁の狐が納められている。
写真下左には二社が合祀されていおり、右から天祖神社、春日神社。
下の狐は、本殿とは反対側、赤羽駅寄りの場所に置かれている、高さは15cmほどの小さなもの、とても古そうです。隣にもたくさんの狐が置かれている。
八社合祀の祠
この祠には八社が合祀されています。写真右から、北野神社・御嶽神社・阿夫利神社・大山神社・住吉神社・稲荷神社・大黒主神社・疱瘡神社。 末社の足許に置かれているのは、右から金精石、北の神社のなで牛、稲荷神社の狐が置かれています。
近隣で唯一なのが「疱瘡(ほうそう)神社」です。天然痘を流行らせる神で、それを祀ることで魂を鎮めたのでしょう。姿はオランウータンに似た猩猩(しょうじょう)=ヒヒの姿説がある。また、アイヌ語では『群れをなして来る渡り鳥で「悪い病気」をもたらすという』意味もあるという。アイヌ説は、最近分かった、インフルエンザが渡り鳥に宿るウィルスが変異して人にも影響を与えると言うことを古代アイヌの民はとっくにつかんでいたのかも知れません。昔は村はずれに庚申塔と同じくらいあったそうだ。
写真下、「書道学問の上達・合格を祈願しながら牛の象をなでて下さい」の表示がある。北野神社の御祭神、菅原道真は俗に、「天神さん」と呼ばれ 学者・文人・政治家として優れていたところから 詩歌・文筆・学問の神として尊敬されるようになった。近世には寺子屋で学問の上達を祈願する、天神信仰が普及した。御本社である北野天満宮(955年創建)には、菅原道真が 丑年に生まれ丑年に亡くなったことから、丑の像が安置されており、丑の頭をなでると頭脳明晰になると信じられている。
右の石造りの金精様は高さ115cm。この手の置物は近隣神社では珍しい。

写真左は「古峯(ふるみね)神社」で本社は栃木県鹿沼市にあります。この末社の由来は。赤羽一帯が明治36年(1903)6月4日に大火にあいました。全焼200戸、被災者400名で、実に赤羽の4分の3が焼出してしまった。原因は現在の東北本線を走る蒸気機関車がはく火の粉が茅葺き屋根に飛んだためでした。これを起原に、火防せで霊験あらたかな古峯神社詣の講が結成されて、以来、その行事は現在も続いていると聞きます。
写真下は古峯神社本社
御祭神に日本武尊(ヤマトタケルノミコト)を祀る。日本武尊は、駿河で野火攻めに遭った時、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)で草をなぎ払って難を逃れた。この火難を除かれた故事により、火防の神として全国の崇敬者より絶大なる信仰を仰いでいる。
天神牛  金精石
左は天神牛 右は金精石
古峯神社末社
赤羽八幡宮(江戸名所図会)
『江戸名所図会』は神田雉子の名主、斉藤幸雄、幸孝、幸成ら三代が40年の歳月を掛けて天保七年(1836)に完成した江戸風俗地誌。絵は長谷川雪旦の筆になり精緻と評価されている。
図の下の道路には川口街道と書かれている。岩淵〜鳩ヶ谷〜大門〜岩槻へ向かう日光御成街道。宝憧院前を直角に曲がって川口方面へ向かっている(拡大図参照)。現在、宝憧院と八幡神社の間にはJR京浜東北線や東北本線、上信越線などが走り、八幡神社の山腹には新幹線と埼京線が貫いている。神社南側には師団坂がないが、師団坂は明治になって旧陸軍の工兵大隊が移ってきたので造られた道路だから。
『江戸名所図会』で「赤羽山八幡宮杜」のページに記載している文章以下に写す。

赤羽山八幡宮杜 あかばねむらにあり。社伝に云く、「当社鎮座の年歴は久遠にして詳らかならず」とぞ。中古(なかごろ)おほいに荒廃におよびしを、文明(1469〜87)太田道灌(1432〜86)再興ありしより、祭礼怠ることなし。神宝に獅子の頭一箇、古き面二枚あり。 下の図は宝憧院の部分を拡大した図

  【関連】 宝憧院のページ

宝憧院の部分を拡大


古峯神社本社(栃木県鹿沼市)

赤羽八幡神社と俗称され、祭神は品陀和氣命(ぼんだわけのみこと)(応神天皇)、帯中津日子命(たらしなかつひこのみこと)(仲哀天皇)。「日本書紀」よれば、応神天皇の父)、気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)(神功皇后。『日本書紀』によれば、仲哀天皇の皇后、応神天皇の母)です。江戸時代、この神社は岩淵五ヵ村(赤羽根村・下村・袋村・稲付村・岩淵宿)の総鎮守であり(『新篇武藏風土稿』)、現在もその地域の総鎮守となっています。
  創建年代等は不詳ですが、伝説によれば延暦年中(782〜806、平安時代)坂上田村麻呂(758〜811。平安初期の武将。蝦夷地平定に大きな功績を残す。その一生は模範的武将として尊崇され、征夷大将軍の職名は長く部門の栄誉とされた)が東征の途次このあたりに陣を敷いて三神を勧請したのに始まり、長徳年中(995〜9、平安時代)源頼光が社殿を再興し、久寿年間(1154〜56、平安時代)源頼政が修造を加え、応永(1394〜1428、室町時代)正長(1428〜29、室町時代)の頃、地頭であった太田資清(太田道灌の父)が社領として一貫文の地を寄進し、文明元年(1469、室町時代)太田道灌が社殿を再建したといいます(『岩淵町郷土誌』)。
  これはさておき、ここには太田新六郎康資(やすすけ)(太田道灌の曾孫)の、天文20年(1551、室町時代)寄進状が伝えられており、その文面は、
  岩淵之内赤場根八幡領之事  合壱貫文之所者
  右為社領如前々闕之候、且々私之修理おも加可申候、萬一自分を為本無沙汰に付而は可放取物也、仍而如
  件天文二十年辛亥十二月八日  太田新六郎
              康資  華押
  八幡禰(実字は示ヘン)祇  朝日輿五右衛門殿

となっています。従って、この神社は、室町時代末期以前からあったことは確実です。
また、『新篇武藏風土稿』に、「赤羽根村・・・・今ハ東叡山及傳通院村内寶幢院八幡社領入會ノ村ナリ」と記されており、慶安二年(1649、江戸時代)に七石余の朱印が付されていること(『岩淵町郷土誌』)、江戸時代、この神社は、年貢・課役の免除を保証された領地を赤羽根村内に七石余有していたことも確実といえましょう。
  現在の本殿は昭和6年(1931)改築されたものです。その向かって右側に神楽殿がありますが、これは絵馬堂を兼ね、絵馬が三枚納められています。
  この神社が祀られている台地は、武蔵野台地の東北端にあたり、東は荒川沿岸の沖積地に、西は八幡谷に面しています。そして、この境内からは縄文式土器・弥生式土器・土師器(はじき)が発見されており、縄文中期・弥生後期・歴史時代の遺跡とされ、八幡神社遺跡と呼ばれていますが、学術調査はまだ行われていないようであり、詳細は不明です。(『東京都遺跡地図』東京都教育委員会)。
  この神社より聖美学園敷地(旧陸軍第一師団工兵第一大隊旧舎後)、国立王子病院敷地(旧陸軍近衛工兵大隊舎跡)、およびその周辺にかけての台上一帯(旧陸軍兵器支廠赤羽火薬庫、作業等跡)は、八幡原と呼ばれ、坂上田村麻呂が陣を敷いたところという伝説があります。
  明治5年、稲付に旧陸軍の火薬庫が設けられ、同20年、第一・近衛両工兵隊の移転があって以来、赤羽の台地には旧陸軍関係の施設の移転・拡張等があいつぎ、赤羽は「陸軍の町」となっていきました。この神社の境内にある工一記念碑や赤羽招魂社(旧工兵第一大隊舎内にあった招魂社。現在は赤羽町の戦没者の霊も合祀)などは、第一・近衛両工兵隊にちなんで工兵坂とも師団坂とも呼ばれています。
   昭和54年3月 北区教育委員会