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日光御成道
稲付城跡(城址) 東京都指定文化史跡 北区赤羽西1-21-17
【稲付城跡(城址)・静勝寺 施設案内】
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太田道灌が築城した稲付(いなつけ)城跡。石段右の石碑に「都旧跡 稲付城跡」と刻まれていますが、これがなければ城跡だとは気が付かないでしょう。 石段を登ると静勝寺の山門があり、その手前に北区の説明板が立っています(下記)。 武蔵野台地の崖を三方に使った城跡。
昭和62年(1987)、静勝寺南方面でおこなわれた発掘調査によって出土した遺跡は石段を登った右側に置いてある(写真左)。
川口市
正覚寺の縁起
によれば。室町幕府足利13代将軍義輝(1546年−1567年将軍在住)の頃、関東にては小田原城の北条氏の全盛時代にあたる。岩槻城主太田資正は永禄7年(1564)正月8日、北条氏康は房州の雄・里見義弘と太田資正の連合軍と鴻臺(千葉県)に一戦して関東の覇を争い北条氏が勝利した、とある。以後、太田氏は北条氏の軍門に下ったものと考えられる。
左のカードは飛鳥山のおみやげ館で売っていたものです。何に使うのかは聞きそびれました。このほかにも、志村城、赤塚城など色々ありました。
東京都指定文化財(旧跡)
稲 付 城 跡
東京都指定文化史跡 北区赤羽西1−21−17
稲付城跡は現在の静勝寺境内一帯にあたり、太田道灌が築城したといわれる戦国時代の砦跡です。
昭和62年(1987)、静勝寺南方面で行われた発掘調査によって、永禄年間(1558〜1569)末頃から天正10年(1582)頃に普請されたとみられる城の空堀が確認されました。
また、静勝寺に伝存する貞享4年(1687)の「静勝寺除地検地地図」には境内や付近の地形のほか、城の空堀の遺構が道として描かれており、稲付城の城塁配置を推察することができます。
この付近には鎌倉時代から岩淵の宿が、室町時代には関が設けられて街道の主要地点をなしていました。稲付城は、その街道沿いで三方を丘陵に囲まれた土地に、江戸城と岩槻城を中継するための山城として築かれたのです。
道灌の死後、この城は孫の資高(すけたか)が居城し、後に後北条氏に仕えました。その子康資(やすすけ)は後北条氏の家臣として岩淵郷五ヶ村を所領しました。
明暦元年(1655)に道灌の子孫資宗(すけむね)は静勝寺の堂舎を建立し、道灌とその父資清(すけきよ)の法号にちなんで寺号を自得山静勝寺と改めました。その後も江戸時代を通じて太田氏は、太田道灌の木造を安置する道灌堂や厨子を造営するなど静勝寺を菩提寺としていました。
(平成13年3月 北区教育委員会)
(※注) 稲付(いなつけ)と読みます。所在地が住所変更で赤羽西になってしまい、今では稲付中学校の名前くらいしか残っていない。
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