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左の写真、不動明王堂の中を覗いてみたのが下の写真。 ガラスに外の光が反射して中がよく見えないが、後ろに炎を背負い、目をかっと見開いてにらみ付けている不動明王像だ。これは坐像のようでもある。岩に座って、その岩から滝が流れ出ている図は浮間のお不動さんと同じだ。 | |
区内最古の寛永16年(1639)霜月18日銘の阿弥陀如来線刻庚申塔があります。板碑型の石塔本体正面には、阿弥陀如来立像と二猿が線刻され、「山王廿一社」の文字を見るかこができます。「庚申」という文字が無く、本来は三猿のところが二猿であるために、この塔を庚申塔と呼ぶかは議論が分かれますが、区外には、庚申信仰と山王信仰の結びつきを表した類似のモチーフがあるところから、この塔も両者が結びついて造立されたようです。 (北区教育委員会の説明より) 庚申塔の解説 写真左下は左から、月山・羽黒山・湯殿山参拝 四国八十八霊場参拝、 馬頭観世音(菩薩)、 善光寺参拝記念。 |
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阿弥陀如来線刻庚申塔の拡大写真 |
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弘法大師の修行像は真言宗の寺では良く見られますけれど姿は同じではありません。着衣やスタイルも微妙に異なります。
→近隣の弘法大師像集 右下の写真は大師像の後ろの本堂壁に見付けた鬼です。どんな重さにもたえる鬼、のようにみえる。 後ろ姿を眺めることはあまりないでしょう |
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何か物悲しい顔に見える |
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宝憧院前
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宝憧院前の道標門に向かって右側の道しるべは、江戸時代の中期、元文5年(1740)12月に了運という僧侶によって造立されたものです。 宝憧院前は、板橋道が日光・岩槻道と合流する位置でしたので、銘文には「東 川口善光寺道 日光岩付道」・「西 西国富士道 板橋道」・「南 江戸道」と刻まれています。日光・岩槻道は、岩淵宿から川口へと船で渡り、鳩ヶ谷・大門・岩槻の宿場をへて幸手宿で日光街道に合流する道筋です。江戸幕府の歴代将軍が徳川家康・家光の廟所のある日光に社参するための専用の街道としたので日光御成道とも呼ばれました。板橋道は、西国へと向かう中山道や八王子から富士山北麓の登山口へと向かう富士街道へ通じていました。 道標は、各々の方向から来た人々が、先ず、自分の歩いてきた道を確認し、次に、これから訪ねようとする土地への道が、どの道なのかということを確認できるように造られたものです。 《平成3年3月 北区教育委員会》 |
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