ヤマブキの実と太田道灌 | |
一重ヤマブキの花 (実を付ける) | 八重ヤマブキの花 (実を付けない) |
シロヤマブキの実 | ||
シロヤマブキの実はやがて黒くなります | ||
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写真上は赤羽の静勝寺(曹洞宗)内に掲載されている絵です、静勝寺は太田道灌が築城した稲付(いなつけ)城の跡地に建つ寺。 写真左は、境内には道灌堂があり、中には鎮座する道灌像が納められている。7月26日の命日にはお祭りが行われている。 写真下の碑は都電荒川線の終点・早稲田駅の一つ手前の停留所 「面影橋」 近くに建っている「山吹の里の碑」と豊島区教育委員会の解説板。脇を流れる神田川。碑の石仏は如意輪観音像。下には解説板の内容を写した。 一番下は太田道灌ゆかりのさいたま市岩槻区にある道灌像で岩槻区役所前と芳林寺内にのもの。 |
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「山吹の里」の碑 所在地 高田1-18-1 新宿区山吹町から西方の甘泉園、面影橋の一帯は、通称「山吹の里」といわれています。これは、太田道灌が鷹狩りに出かけて雨にあい、農家の若い娘に蓑を借りようとした時、山吹をI枝差し出された故事にちなんでいます。後日、「七重八重 花は咲けども 山吹の み(実)の(蓑)ひとつだに 無きぞ悲しき」(後拾遺集)の古歌に掛けたものだと教えられた道灌が、無学を恥じ、それ以来和歌の勉強に励んだという伝承で、『和漢三才図会』(正徳2・1712年)などの文献から、江戸時代中期の18世紀前半には成立してい たようです。 「山吹の里」の場所については、この地以外にも荒川区町屋、横浜市金沢区六浦、埼玉県越生町などとする説があって定かではありません。ただ、神田川対岸の新宿区一帯は、昭和63(1988)年の発掘調査で確認された中世遺跡(下尸塚遺跡)や、鎌倉街道の伝承地などが集中しており、中世の交通の要衝地であったこと は注目されます。 この碑は、神田川の改修工事が行なわれる以前は、面影橋のたもとにありましたが、碑面をよくみると、「山吹之里」の文字の周辺に細かく文字が刻まれているのを確認でき、この碑が貞享3(1686)年に建立された供養塔を転用したものであることがわかります。 平成16(2004)年3月 豊島区教育委員会 |
岩槻区役所前にある道灌蔵 | 芳林寺境内には道灌と子の氏資像がある |