国道122号の新河岸川に架かる橋。昔はこの川が荒川でこの辺りに渡し場があった。川の両岸には岩淵宿と川口宿があった。「広重の川口の渡し」は岩淵(赤羽〕側からの望んだ荒川と善光寺が書かれている。写真に案内板が写っているがその文章を以下に写す。 岩淵の渡船場跡 岩渕町41番先 このあたりに、岩淵宿から荒川を渡り、川口宿に向かうための渡船場がありました。江戸時代、ここは川口宿の飛地であったことから「川口の渡し」とも呼ばれていました。 渡船場は、奥州との交流上の拠点として古くから利用されており、鎌倉幕府を開いた源頼朝の挙兵に合わせて、弟の義経が奥州から参陣する途中、ここを渡ったといわれています。また、室町時代には、関所が設けられ、通行料は鎌倉にある社の造営や修理費などに寄進されました。 江戸時代、ここを通る道は、日光御成道と呼ばれる将軍の日光東照宮参詣の専用道として整備されました。渡船場も将軍用と一般用に別れており、将軍が参詣のために通行する際は仮橋として船橋が架けられました。船橋は長さ六五間(約117m)、幅三間(約5.4m)です。 一般の渡船場は、人用の船と馬用の船一艘ずつ用意されていました。渡船の運営は岩淵宿と川口宿が隔日で勤めてきましたが、大名の通行などの際、近隣村で現在北区内の下村・浮間村、埼玉県戸田市の早瀬村の三ヶ村も勤めることになっていました。また、対岸の河原にある善光寺が、名所として参詣者で賑わうようになり、開帳中は船橋が架けられたほどでした。 渡船場は、明治以降も利用され、明治38年(1905)3月からは常設の船橋(下に絵があり)が架けられました。しかし交通量が増大するにつれて、船橋では対応できなくなり、昭和3年(1928)9月、少し下流に新荒川大橋が開通すると、その役割をおえ、船橋は撤去されました。 平成7年3月 東京都北区教育委員会 |
川口の渡し跡 (碑) 安藤広重江戸百景めぐりに登場する「川口のわたし善光寺」は、荒川を挟んで赤羽側から向こう岸を望んだ絵として有名です。 将軍が日光社参をする際、混雑や警備上の問題から、千住大橋を渡る日光街道を避けて中仙道を北上し、荒川の川口の渡しを舟で渡り、日光街道に合流する岩槻街道が利用されました。その渡しの碑が川口駅東口から本町通りを南下し環状線通りと交差するところに、小さな植え込みと大石の中にひっそりと今も残っています。川口周辺の散策時には、是非とも訪れて探して見ませんか。 【関連情報】 日光社参の荒川仮設橋の図|戸田の渡し跡の図 |
左の絵は、荒川知水資料館に展示されている「岩淵と川口を結んでいた舟橋」 (川口市広報課提供)で明治38年(1905)に架けられ、昭和3年(1928) 9月新荒川大橋が開通するまで利用されてました。舟橋通行料は一人1銭。川は現在の新河岸川です。絵の左にある寺は善光寺です。現在の荒川は大正時代から昭和5年まで20年掛けて新たに掘削したものです。 |
【江戸名所図会】より抜粋 川口の渡し (往古は、こかはぐちといへり)。『義経記』に、九郎御曹子 (源義経、1432〜86)奥州より鎌倉に至りたまふといへる条下に、「室の八島をよそに見て、武蔵国足立郡こかはぐちに着きたまふ。御曹子の御勢八十五騎にぞなりにける。板橋にはせ附きて、『兵衛佐殿(源頼朝、1147〜99)は』と問ひたまへば、『おととひ、ここを立たせたまひて候』と申す。武蔵の国府の六所町につきて、『佐殿は』と仰せければ、『おととひ通らせたまひて候。相模の平塚に』とこそ申しける」と云々。按ずるに、渡し場より壱丁ほど南の方の左に府中道と記せる石標あり。これ往古の奥州海道なり。これより板橋にかかり、府中の六所町より玉川を渡りて、相模の平塚へは出でしなり。 |