水神社(さいたま市緑区大字大間木字八丁2395番)
水神社は、見沼通船堀が開通した翌年の享保17年(1732)6月の創建と伝えられている。祭神は罔象姫命(みずはめひめのみこと=水の神・雨乞いの神)である。本殿は大正12年9月1日の大地震により全壊し、同13年に再建されたものである。
享保16年、井沢弥惣兵衛為永によって開削された見沼通船堀が開通し、江戸と見沼代用水路縁辺の村々との物資輸送が可能になりました。船は代用水路縁辺の河岸で荷物(江戸時代においては年貢米が主であった)を積んで江戸へ行き、帰りは肥料、塩、酒などの商品を積んできた。荷物の積みおろしをする河岸場は、芝川と東西縁用水路沿いに59か所。八丁の河岸場もその一つであり、この付近には河川輸送にたずさわる人たちが住んでいました。
水神社はそのような仕事につく人たちが水難防止を祈願して祀ったものです。
昭和58年3月 さいたま市(境内の掲示物より)
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水神社アップ |
芝川に架かる人道橋(左)と八丁橋(右)、正面は水神社 |
八丁堤
さいたま市大字大間木〜川口市木曽呂
八丁堤は、関東郡代伊奈半左衛門忠治が築いた人口の堤である。長さが八町(約870m)ほどあるのでその名が付けられた。
徳川家康の関東入国後、伊奈氏は累代治水事業に力を尽くし利根川や荒川の流路を替えたり灌漑用水池を作るなど関東地方の治水事業を次々に完成させた。見沼溜井もその一つである。
寛永6年(1629)、伊奈忠治は両岸の台地がもっとも接する浦和市大間木の附島と川口市木曽呂の間に堤を築き灌漑用水池を作った。その面積は1200uに及ぶ広大な溜井であった。この溜井は下流地域221か村の灌漑用水として使われたが、大雨が続くと氾濫したり、干ばつの時は水が足りなくなったりするなどいろいろ不都合が出て、享保12年(1727)、八代将軍吉宗の命を受けた井沢弥惣兵衛為永によって干拓されるに至った。
また、この八丁堤は寛永6年に伊奈忠治が
陣屋を構えた赤山に通ずる「赤山街道」の一部でもある。
昭和58年3月 さいたま市教育委員会 (八丁橋の脇に立つ解説板より)
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