満蔵寺(春日部市)梅若伝説 埼玉県春日部市新方袋253 真言宗智山派
梅若塚 【梅若伝説】
平安時代の話。京都の北白川に住んでいた吉田少将帷房卿の一子梅若丸が東北・福島の人買いにかどわかされて東国に下る途中、隅田川のほとりで重病になり捨てられた。
看病をしてくれた里人に素性を語り辞世の句を残して生き絶えてしまった。
「尋ね来て 問わば答えよ 都鳥 隅田川原の露と消えぬと」

一方、我が子を探し歩いてこの地にたどり着いた母は、子の死を知り出家して名を妙亀と改め菩提を弔った。だが、後に世をはかなんで近くの池に身投げしてしまった。
梅若丸を供養する供養塚が梅若塚、妙亀尼を供養するための妙亀塚がある。

左の写真は春日部市新方袋の満蔵寺にある梅若塚である。
説明文を読むと、この地で亡くなった梅若丸の供養をするため地蔵堂を建て塚を築いたとある。
関連する別の話から始まる。

板橋区小豆沢の総泉寺はもと浅草橋場にあった。江戸時代には青松寺・泉岳寺とともに曹洞宗の江戸三箇寺のひとつであった大寺。関東大震災で罹災したため、当地にあった古刹・大善寺に間借りする形で移転。その後合併して現在に至る。その総泉寺の起こりは妙亀尼が梅若丸の菩提を弔うため庵を結んだのに始まるという。ゆえに寺の山号は妙亀山。妙亀塚の隅田川を挟んで対岸にある木母寺には梅若塚がある。このことから、梅若伝説は浅草橋場で起こったことだと理解していた。

話は、春日部の満蔵寺に戻る。
この地には版木が存在し、応永三年(1396年)と記されている(時代は、室町幕府の足利義満が金閣寺を造営した前年に当たる)。それには梅若の母の最後のことが詳しく語られており、これは他に類のない貴重な言い伝えでである。
それに、近くには古隅田川が流れて川幅200m以上もあったようだ。大体が、犯人が東北・福島の地元に帰る場合、隅田川の海近く、大河の浅草を渡るだろうか。義経が岩手から挙兵したときには岩槻街道を通り川口市の新荒川大橋辺りを渡った(鎌倉街道の鎌倉橋の碑が残っている)。春日部には古奥州街道の道筋がある。果たしてどちらが正しいのか。

以下は満蔵寺の紹介。
満蔵寺
春日部市の満蔵寺
総泉寺
板橋区小豆沢の総泉寺  
地蔵堂 梅若丸祠
地蔵堂 梅若丸祠 梅若伝説説明板
お葉付けイチョウ 【満蔵寺のお葉付けイチョウ】
埼玉県指定天然記念物です。
このイチョウは、枝がだいたい水平に出ることと、枝端に葉の群生するところができるなどの特徴があるほか、特に、葉の縁のくぼみに実を付けるという珍しい特質があります。その実を、「お葉付けイチョウ」といいます。
実を付ける葉は、普通より小さく、その多くは奇形をしています。また、実は、年によって多いときと少ないときがありますが、多いときでも正常なものと比べてきわめて少なくて、小形なものです。下方の枝は、傘のように下向きなのも特徴。有名なのは港区元麻布の善福寺のイチョウ。

お葉付けイチョウ
お葉付けイチョウ 鹿のオブジェ
お葉付けイチョウ・傘状の枝 ギンナンがたくさん落ちている
コスモスと満蔵寺 六地蔵
コスモスと満蔵寺 六地蔵
北向き水掛地蔵 観世音菩薩 慈母観音
北向き水掛地蔵 観世音菩薩 慈母観音