浮間の石仏
渡船場跡の石造物 浮間3-6
左から水神宮・庚申塔・馬頭観音・巡拝供養塔と並ぶ
左の水神宮はいつ造立されたかは不明ですが正面に水神宮と刻まれています。近隣の新河岸川(昔の荒川)沿いには
七つの水神宮
があります。昔の村落単位で一村一宮ありました。
右の
庚申塔
は干支の庚申の日に徹夜して健康長寿を願う信仰にかかわって、天保9年(1838)6月に浮間村講中18人が造立したものです。正面には庚申信仰を象徴する青面(しょうめん)金剛立像が浮き彫りされています。
左の馬頭観音は文化10年(1813)に浮間村講中の35人が往来する馬の安全を祈って造立したものです。馬頭観音の顔は左右にもあり3面6臂(腕)。江戸時代の浮間には馬が5頭いたが牛はいない。像の裏手に王子運送があったのも何かの縁でしょう。
右はの供養塔、文政元年(1818)7月、浮間村の林蔵が西国秩父板東百ヶ所の観音霊場、四国八十八ヶ所の弘法大師霊場を巡拝した記念に造立したものです。
子育て地蔵堂 浮間3-34
由緒やいわれと言った掲示物は何もない。
地蔵菩薩が2体、写真右の大きな像には願文があるが建立年代は不明である。「63人念仏結集年」の文字も見られるが、当時の浮間には50所帯くらいしか住んでいなかったから63人はすごい人数だ。
庚申塔
は安永6年(1777)建立。
巡拝供養塔は天保8年(1837)、北足立郡浮間村・尾熊源左衛門が「西国・秩父・板東」観音霊場百ヶ所を完遂したのを記念して建立。上部の像は如意輪観音で、願文に「為二世安楽也」とある。 以前、ここの石仏はペンキを塗られてしまった。
北向き地蔵堂 浮間2-4
中央の地蔵菩薩立像が享保6年(1721)に造立されたもので、疣取地蔵(いぼとりじぞう)・身代わり地蔵とも呼ばれています。かって浮間村の北の入口に外へ向けて建てられていたので、北向き地蔵と呼ばれました。疫病・悪霊などが村内に入ってこないように村境に建てられました。
右の庚申供養塔は宝永2年(1705)10月に結衆21人が、また、左の庚申待供養塔は安永6年(1777)2月に浮間村講中が、干支の庚申の日に徹夜して健康長寿を願う信仰にかかわって造立したもの。
庚申塔 浮間3-11(旧さくら荘横)
庚申塔(通称傘屋地蔵) 浮間2-24
観音寺六地蔵 浮間4-9-2
浮間橋の記念碑 浮間1-1
浮間は荒川と新河岸川の間に挟まれ、交通手段を渡船に頼らざるを得ません。そこで浮間地域の人々が、現在の赤羽台4丁目にある東京北医療センター付近に駐屯していた近衛師団工兵隊へ計6千円を拠金して架橋を依頼し、昭和3年(1928)5月に幅2間、長さ65間半の木造の橋が完成しました。その記念に建てられたのが大きな碑(旧浮間橋建設記念碑)です。
橋は昭和9年(1934)に幅8メートルの鋼板鋼桁橋になり、昭和15年(1940)には鉄橋に架け替えられました。しかしその橋もJR(旧国鉄)の東北・上越新幹線の建設計画に伴い再び架け替えられることになったため、旧浮間橋建設記念碑建立に関与した人々の子孫を中心に、記念碑の移設及び顕彰保存を目的とした浮間橋記念碑保存会が設立されました。碑は昭和60年(1985)9月に現在の浮間橋脇に移設され、記念に小さな碑が建てられました。
上の地図には北向き地蔵が掲載されません。「浮間2」の交差点を荒川方面へ進み土手の一つ手前の交差点を右折するとすぐにあります。