如意輪観音堂 川口市芝西1-19-7
【如意輪観音堂 案内】
阿弥陀如来坐像は、木造漆箔着色で、座高29.3cm、この坐像の内部は内刳(像の内部を刳り抜いて空洞にすること、寄木造りになると大きく内刳りをするようになる)されて、金泥がひかれている。この胎内には、総高13.2cmの左手に子供を抱えた立像(マリアがイエスを抱いている姿と考えられる)と、銅製の十字架(長8.7cm、横4.1祖も、厚さ3mm、イエス像は身丈3.3cmで、タガネ止めとなっている)が入っている。如来坐像の光背は、頭光身光の型をし、文様には「麦穂」を配しているのをはじめ、キリスト教関係のものと見られる本来の仏像とは異なった意匠が施されている。この仏像は昭和30年代に発見され、マリア観音とも呼ばれている。
昭和34年3月20日 県指定
※ 像は埼玉県立博物館(さいたま市大宮区高鼻町4-219)へ寄託
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元和キリシタン事件と龍派禅珠
元和元年(1623)7月、三代将軍となった家光は、江戸のキリシタンの一斉検挙を始めた。これが世に言う「元和キリシタン殉教事件」である。
この元和の殉教では、まず同年10月13日に宣教師や信徒ら50人が江戸高輪(現:港区)で火刑に処せられ、次いで11月3日には先に殉教した信徒達の夫人や子供達が難にあった。この信徒の中にレオ竹子屋権七郎がいて、その妻が芝の代官熊沢忠勝の娘であったことから、
長徳寺住職(鎌倉建長寺派)・龍派禅珠(りゅうはぜんじゅ・号 寒松)が助命に乗り出した。この模様は、龍派の著した『寒松日歴』(寒松日記:県指定文化財)に日を追って記されている。
この娘は龍派の巧あって助命され、後に再建の日を迎えることができた。この胎内マリア観音と十字架は、娘が芝村に逃げ帰った時に、江戸の信徒から託されて持ち帰ったものであろうか。
川口市教育委員会の解説を引用
→川口市文化財リスト
阿弥陀如来と胎内マリヤ観音(「新編埼玉県史 通史編3」 より)
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