正覚寺  川口市元郷3-1-14  曹洞宗格地寺院  永喜山
正覚寺 (川口市)
specer
山門
specer

specer
布袋尊
specer
聖観音
specer
 【正覚寺 施設案内】

   川口七福神はこちら
本尊:釈迦牟尼如来、両脇に千手観音
駐車場:山門脇(写真右側)
spacer
正覚寺は永喜山と号し、開基は岩槻城主太田美濃守配下の平柳蔵人高綱である。戦国時代の真っ只中であった天文15年(1546)頃に平柳蔵人高綱が父・平柳但馬守入道徳叟や一族の菩提を弔うために阿弥陀三尊を奉安して創建した。永禄元年(1558)には嫡男忠教が高綱の戒名「柳正院殿歓覚永喜大居士」から山号を「永喜山」とした。 天正11年(1583)には江戸青松寺第六世久室玄長禅師が招請されて復興した。以後、安政2年(1855)の大地震や大正12年(1923)の関東大震災で堂宇が倒壊するも再建され、昭和23年(1948)には格地寺院に昇格した。
当寺の山門は約280年前に建立されて以来、3回にわたる大修理を行われてきたが、老朽化のため平成17年11月に新築された。
なお、文中の阿弥陀如来は坐禅堂階上の仏像奉安堂に安置されている。

川口七福神の布袋尊、正月の10日までは開扉されているようです。布袋さんの体型は現代ではメタボリックシンドローム(代謝症候群)の典型で減量に悩むでしょうな。

【布袋】
布袋尊はいつも笑顔で容貌福々しく、人々に喜びを授ける家庭円満・平和安穏の神である(笑う門に福来る)。その福徳は体格通り大量無辺の太っ腹である。
粗衣をまとった姿は、何事にも動じずこだわらない人格・度量の大きさを表し、寛容仁忍・憂慮無用を教え、無邪気で無欲な心の豊かさを諭してくれる。
当寺の尊像は杖を持っているのが特徴で、これは己の欲望や邪念を打ちのめす反省の心を示している。
布袋尊とは中国漸江省の四明山岳林寺にいた契此(かいし)という実在の禅僧で、917年に没して定應大師を諡られた。
袋に入った道具だけで営む簡素な生活であったので「布袋」と称され、吉凶を予知して人々に知らせたの で、弥勒菩薩の化身、慈尊とも呼ばれた。

正観音菩薩
写真上は境内に安置された新しい正観音菩薩石像でと呼ばれる。

感思微忱
碑に書かれている文章は経年劣化で読み難いところがあります。七福神めぐりも何かのご縁、石彫文をテキストに起こしました。間違いがあったらご容赦願います。
山門を入ってすぐ左の聖観音は、舟形光背を含めて一木彫りの秀作で、天明2年(1782)の浅間山大噴火と荒川大洪水により傷ましい姿で流れ着いたものという。右手は施無毘印(せむいいん)、左に蓮華のつぼみを持つ。
spacer

【感思微忱 子教】
正覚寺の開基平柳蔵人は平柳領十五ヶ町村の領主にて仁慈英遇であったことは没後四百年を経た今日なお追慕するものの多いことによって知られる。領地は元郷町を本拠とし川口市の東部より南部に亘り、旧南平柳村川口町飯塚町及び鳩ヶ谷町に属する元北平柳村の前田・中居・上新田・小淵・辻の五地域並びに東京都北区浮間町の地域であった。荒川を南面にする要害に拠り足利公方に隷属し岩槻城主太田美濃守の前衛をなした。時代は室町幕府足利十三代将軍義輝(1546年−1567年将軍在住)の頃、関東にては小田原城の北条氏の全盛時代にあたる。蔵人は管名であって父子二代に亘り少なくとも60年以上此の地を治めた。又は柳國院殿覚相永正大居士、子は柳正院殿歓覚永喜大居士と正覚寺の過去帳に記してある。江戸の名刹愛宕山下の青松寺六世久宝玄長を開山として迎えたのは子の蔵人であることは戦死、卒去の年代や法号のよって考えられる。1564年永禄七年正月八日、北条氏康は房州の雄・里見義弘と太田資正の連合軍と鴻臺(千葉県市川市国府台)に一戦して関東の覇を争った。午前の戦は太陽を背にした太田三楽斎らの連合軍の大勝であったが、午後、、北条方の奇襲が奏功して形勢は逆転した。平柳蔵人一族は此の戦いに於いて太田氏の先鋒として奮戦し全滅したようである。蔵人の戦死は1月18日と記されている。父の卒去は永正2年(1505年)であったから実に59年の後にあたる。その後21年、天正13年(1585年)6月25日に開山久宝玄長は示寂した
銘曰 創建一宇 至考至順 稱正覚寺 号永喜山 歸信玄長 連法宗禅
英遭断事 仁慈治民 其徳不狐 百世稱傳 鴻臺争覇 力闘奮戦
傾盡臣節 芳名千年 感思刻石 敬致微忱
正覚寺二十六世 重興開山 法憧開闢 学習院大学教授 澤口 剛雄 並書

1965年5月18日 建之
色々な石造物
平柳蔵人の居館跡記念碑 川口市立南平公民館
右の写真は、この地を治めていた平柳蔵人の居館跡記念碑です。正覚寺を菩提寺にしてました。詳しくは上記の石碑翻訳にあります。この地のページはこちら