江戸名所図会・清水薬師 清水坂
江戸名所図会・清水薬師 清水坂
薬師の泉spaser
旧中山道地図
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旧中山道は志村坂上交差点から左へ国道からそれます。この坂は急で、途中大きく曲がっていて、街道で唯一富士を右手に一望できる名所がある、と記述にあります。その場所は旧街道の地図に示した部分です。今は、高い建物に視界を遮られて富士山は見ることは出来ません。その先旧街道は、国道を横断して酒屋さんの前を過ぎ、右側を少し進みます。→現在の清水坂写真
【薬師の泉 施設案内】
薬師の泉庭園の池東屋中山道の門と解説板
江戸名所図会(清水薬師・清水坂)

図の左上が清水坂で、旅人が二人見える。階段を下り細流の橋を渡ると大善寺(現・総泉寺)境内になる。左図は泉の部分を拡大した図。
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清水坂
日本橋を旅立ち旧中山道で最初の難所。隠岐殿坂、地蔵坂、清水坂と、時代と共にその呼び名を変えました。この坂は急で、途中大きく曲がっていて、街道で唯一富士を右手に一望できる名所であったと言われています(注釈:左地図の青色の部分)。
坂の下には板橋・蕨両宿をつなぐ合の宿があり、そこには志村名主屋敷や立場茶屋などがあって、休憩や戸田の渡しが増水で利用できない時に備えの場所として利用されていました。この辺りは昭和30年代ごろまでは旧街道の面影を残していましたが、地下鉄三田線の開通など、都会化の波によってその姿を変えました。 (平成12年3月  板橋区教育委員会)   
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清水坂
 志村にあり。世に地蔵阪とも号(なず)く。旧名は隠岐殿(おさどの)坂と呼べり。昔隠岐守何某闘かるるゆゑなりといふ。この地峻岨(けんそ)にして、往還の行人おはいに悩めり。よって寛保年間(1741〜44)大善寺の住守直正和尚、僧西岸と力を戮せ(あわせ)、勧進の功を募り、木を伐り荊(いばら)を刈りて、石を畳みて階とす。しかありしより、行人苦難の患ひを逓る。  (江戸名所図会より)
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清水薬師如来
 清水坂の下にあり。医王山大善寺と号す。曹洞派の禅林にして、芝の清松寺に属せり。永正年間(1504〜21)、この地の農民新見善左衛門といへる人開基す(善左衛門、法名を清雲大善庵主と号す。永正十年癸酉(1513)二月寂す。その霊牌当寺にあり)。その後元亀年間(1570〜73)に至り、青松寺の雲崗和尚(舜徳、1438〜1516)の法孫在天禅師(1490〜1572)住職して法灯を掲ぐ。本尊薬師如来は聖徳太子の真作にして、左右の脇壇に十二神将の像を置く。境内清泉湧沸す。一年(ひととせ)大樹(将軍吉宗)この地御遊猟の頃、当寺へ立ち寄らせたまひ、この清泉によりてこの本尊を清水薬師と称すべき旨、命あり。しかりしよりかく唱ふるといへり(この清泉は寺前、山の涯下に添ひて沸流せり。近隣の村落みなこの水を汲みもちゆ。この辺り羅葡(だいこ)を名産とす。世に清水大根と称して、種を売買することもつとも夥し(おびただし))  (江戸名所図会より)

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