稲付の餅つき唄
東京都北区指定無形民俗文化財
稲付の餅搗唄
         北区赤羽西2−14−20 道観山稲荷社地内
  江戸時代、ここは稲付村(いねつけむら)と称されていましたが、この先右側の社地でうたわれる餅搗唄(もちつきうた)は、住民が昔から餅を搗くときにうたった作業唄で、現在は、毎年初午祭りのときに道観山稲荷講の人達によってうたい継がれています。
  餅は正月を祝って鏡餅として神棚に供えるとともに、これを雑煮にして食べたり、祝い事や保存食に使うためにも搗かれました。稲付の地域では、餅を搗く際に、臼のまわりに何人もの若者が集まり、唄をうたいながら小さい杵を次々と振り下ろして餅を練ったり搗いたりします。餅を練るときにうたったのが稲付千本杵餅練唄、餅を搗くときうたったのが稲付千本杵餅搗唄です。唄は、大正12年(1923)9月の関東大震災の前後まではズシ(=辻子)と呼ばれる小地域共同体の若衆がモヤイ(=催合)と呼ばれる相互扶助的慣行によって家々をまわり、一晩かけて餅搗きの手伝いをするときうたわれました。しかし、米屋が餅の注文をとるようになると餅を搗く機会が次第に失われ、モヤイによる餅搗き歌も姿を消していきました。
  昭和40年前後、赤羽西二丁目町会の役員が稲荷講の役員を兼ねていたのが契機となって、静勝寺の参道下から清水小学校までの街道沿いを氏子地域とするが道観山稲荷講の人々が初午祭に際して餅搗き歌を伝承するようになり、今日に至っています。
   平成8年3月   東京都北区教育委員会