定正寺 蕨市塚越3-2-14 真言宗智山派
定正寺(蕨市)
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足立観音霊場の33番札所であり札元でもあった
本尊 正観世音菩薩
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定正寺は真言宗智山派のお寺、弘法大師の碑も建っている。しかし、無住で地区が管理しているお堂のようだ。
境内は掃除が行き届いて気持ちいい。下の扁額にもあるが(右から左に読む)本尊は正観世音菩薩。そもそもが足立坂東観音霊場の札元であり、宝永2年(1705)高橋源太郎休山の開設。その墓が堂の右にある(写真下端)。悲しいかな、寺は明治政府の神仏分離令で勢いをなくしてしまったのだろう。
2009年に参ったとき、本堂は下の写真の有様でした。札元の寺ですから期待してきたのですが寂しいと思った。それが、2014年丑年の開扉の時は左の写真のように立派に再建されていました。

塚越地蔵
扁額(正観世音菩薩)
扁額には正観世音菩薩(右から左へ読む)の文字
塚越稲荷参道 塚越稲荷
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高橋源太郎休山の墓 高橋源太郎休山の戒名 写真上は、「塚越神社(正式には稲倉魂神社)」。定正寺はこの神社敷地の片隅にある。

写真左は、足立坂東観音霊場を開設した高橋源太郎休山の墓。 戒名は源明院昌教休山居士と彫られている。堂の右側に鎮座しています。
約300年ほど前のことです。定正寺の高橋源太郎休山和尚は身近に霊場巡りができないものかと考えました。寺を巡って交渉やら折衝をした末に今日の足立坂東三十三霊場を成立完成させました。
時は移り、明治政府が誕生して、近代化の旗印で心の拠り所の宗教がないがしろにされ、神仏分離令、小社統合令 、廃仏毀釈、などで千年の宗教観が一変されました。定正寺が別当を勤めていただろう塚越神社も強制的に分離され、寺も衰退したと思われます。

同じ敷地内に寺と神社が混在するが、神社関係の解説板は蕨市教育委員会名で4種類ほど立っているのだが、定正寺を説明するものは無し。脇に地蔵堂(写真は上)があり、地域の篤志が建てた石碑があるので下に写す。

  塚越地蔵石仏由来の碑
 寛政元年(1789)5月頃江戸で「武州足立郡 塚越村 御代官 塚越常之丞様 御支配所 百姓弥右衛門 息女 地蔵娘 親孝行の次第板行」といって評判記を売るものがあった。
 この娘は春中から何かまじないをするとて諸所より人々が集まり、茂右衛門も見に行ったことがあるが、折りあしく江戸本所辺りに御成があり、役人衆がこれを聞きとめて志村鳥見方より代官への届出もなく、怪しい人寄りだとして取り締まることにした。代官手代を道案内に塚越村にいたり、大勢が集まっている弥右衛門宅に村役人立会の下に踏込み、かの呪咀の数珠を引ったくり江戸役所へ持帰り、支配代官所の門前で村役人立会で焼捨ててしまった。
 人々は気の毒だと同情したが、これまでの布施物だけで金百両にのぼったという。 この地蔵娘と呼ばれた所以は弥右衛門と娘が塚越村地蔵尊に朝夕一心不乱に参拝してるうちに、この娘に神通力がうまれ多くの人々の病気、怪我などを呪咀の数珠によって救ったと伝えられている。
 又この地蔵尊に地元はもとより戸田、浦和、川口など各地区の人々が諸々の願いを込めて参拝し大変なご加護を頂き、その御禮奉修として各地域の方々と相図り現在の地蔵石仏を慶応元年(1865)8月4日、約百名の人達によって安置された地蔵石仏である。 誠に由緒ある皆さんの幸福を導く地蔵尊であります。  (境内に立つ石碑より)

市指定文化財

旧定正寺の本尊とされるこの仏像は、江戸時代前期に造立された像高約28センチメートルの立像です。 安永4年(1775)の「塚越邑観世音略縁起」によれば、元禄16年(1703)に定正寺に祀られたといわれています。
また、足立坂東三十三観音霊場制定の発端となった仏像でもあり、蕨市における貴重な文化財の一つです。 定正寺は明治4年(1871)に廃寺となり、現在は観音堂のみ残されています。

蕨市市指定文化財

 観音像  定正寺・蕨市塚越


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