同じ敷地内に寺と神社が混在するが、神社関係の解説板は蕨市教育委員会名で4種類ほど立っているのだが、定正寺を説明するものは無し。脇に地蔵堂(写真は上)があり、地域の篤志が建てた石碑があるので下に写す。
塚越地蔵石仏由来の碑
寛政元年(1789)5月頃江戸で「武州足立郡 塚越村 御代官 塚越常之丞様 御支配所 百姓弥右衛門 息女 地蔵娘 親孝行の次第板行」といって評判記を売るものがあった。
この娘は春中から何かまじないをするとて諸所より人々が集まり、茂右衛門も見に行ったことがあるが、折りあしく江戸本所辺りに御成があり、役人衆がこれを聞きとめて志村鳥見方より代官への届出もなく、怪しい人寄りだとして取り締まることにした。代官手代を道案内に塚越村にいたり、大勢が集まっている弥右衛門宅に村役人立会の下に踏込み、かの呪咀の数珠を引ったくり江戸役所へ持帰り、支配代官所の門前で村役人立会で焼捨ててしまった。
人々は気の毒だと同情したが、これまでの布施物だけで金百両にのぼったという。
この地蔵娘と呼ばれた所以は弥右衛門と娘が塚越村地蔵尊に朝夕一心不乱に参拝してるうちに、この娘に神通力がうまれ多くの人々の病気、怪我などを呪咀の数珠によって救ったと伝えられている。
又この地蔵尊に地元はもとより戸田、浦和、川口など各地区の人々が諸々の願いを込めて参拝し大変なご加護を頂き、その御禮奉修として各地域の方々と相図り現在の地蔵石仏を慶応元年(1865)8月4日、約百名の人達によって安置された地蔵石仏である。
誠に由緒ある皆さんの幸福を導く地蔵尊であります。
(境内に立つ石碑より)
市指定文化財
旧定正寺の本尊とされるこの仏像は、江戸時代前期に造立された像高約28センチメートルの立像です。
安永4年(1775)の「塚越邑観世音略縁起」によれば、元禄16年(1703)に定正寺に祀られたといわれています。
また、足立坂東三十三観音霊場制定の発端となった仏像でもあり、蕨市における貴重な文化財の一つです。
定正寺は明治4年(1871)に廃寺となり、現在は観音堂のみ残されています。
蕨市市指定文化財
定正寺・蕨市塚越