吉祥院 (川口市)本堂 珍珠山多聞寺 真言宗智山派  川口市南町2-6-8
吉祥院本堂
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 当院が本尊として祀る昆沙門天像は、行基菩薩が聖武天皇の勅願によって敬刻された霊像で、太田道灌が江戸城西の丸を築いた際には北方を守護する本尊として祀られたという。
  その後、かの尊像は文明7年(1475)に当院に寄進され、本尊として安置されるところとなった。以後、本尊は永く絶対秘仏として護持されていたが、川口七福神が開創されたのを記念して、奉祀以来始めて開帳した。現在は毎年正月元旦から10日まで開扉されており、多くの参拝者が御縁を結んでいる。
 十二天とは、東西南北と東北・東南・西北・西南の八方を護る諸天に、天・地・日・月にかかわる4種の神を加えて十二天としたもので、毘沙門天は北の護り神である。


宥鎮和尚を中興開山とする。その創立年代は不詳であるが当山古記録には、それより以前すでに足利時代荒川清域に一宇が創建され、境内には八幡神社を勧請して別当職も兼ね、信徒多数と明記してある。本尊の毘沙門天は行基が天平年間(729〜49年)聖武天皇の勅頼により、敬刻開眼した像であると伝えられて、それより約700年後、室町時代の長禄年間(1457〜60年)上杉家の家宰である太田資清の長子道灌が江戸城築城のおり、上杉家に伝わる毘沙門天を北方の守り本尊として安置したのが文明7年(1475年)当院に寄進し、宥鎮、吉祥院本尊として勧請安置する。当院の建物は建長19年(1267年)雷火によって諸伽藍、楼門にいたるまで焼失し、荒川堤外より現在の境内地に移転する。明治39年3月20日再度の祝融に罹り、本堂はじめ庫裡、地蔵堂、天満宮など全山烏有に帰した。明治42年本堂が再建され、続いて庫裡、書院など逐次造営されたが、その後破損甚だしく、現存する本堂は昭和44年落慶、寺務所、庫裡は昭和47年に完成したものであり、現住職は中興開山宥鎮和尚より31代にあたる。

毘沙門天(吉祥院)

毘沙門天
写真左は吉祥院本尊の毘沙門天像・そのお前立ちです。
昆沙門天は邪気を払い、魔を降す力から厄除開運の仏として崇められる。忿怒(ふんぬ)の形相で天邪鬼を踏みつける姿。常に如来の説法をよく聞くが故に、「多聞天(たもんてん)=ビシュラバナ(全てを聴く)」とも称され、勉学の神でもある。左手に掲げる多宝塔が如来の智慧を示している。 また、持国天・広目天・増長天と共に結界を巡らせる四天王として北方を守護する。 寅年第日寅刻に出現した故に、虎を使者とし、寅日を縁日とする。吉祥天が妃なのは吉祥院との縁か。

【関連情報】東養寺(川口市東本郷)の毘沙門天
毘沙門天 毘沙門天
毘沙門天 毘沙門天
左は本尊の毘沙門天像  右はお前立ちの拡大写真
山門 【山門】
この寺院は、昔はもっと荒川の近くにあったそうだ。度重なる水害や焼失の憂き目のあったが、その度に再興され、現在の位置に移転された。明暦2年(1656)、荒川の大氾濫で当院はすべてが濁流に押し流されたが、仏縁の不思議で本尊は河口から発見された。
浮間から見ると荒川を挟んで「北向き地蔵」の対岸辺りにある。
鐘楼 【鐘楼】
普段は昼、午前11時30分と夕方(夏季は午後5時、冬季は6時)に鳴ります。
大晦日には除夜の鐘として、参詣者の足が遠のくまで響き渡ります。
鐘楼の下に古い石造物が並ぶ。写真右から、一番背が高いのは弘法大師一千年紀供養塔、釣鐘供養塔、地蔵尊、次の屋根の覆う下は4本の板碑が置かれている。
板碑 【板碑】
当院には四本の青石塔婆が、ほぼ完全な形で残されている。
最大のものは阿弥陀種字キリークを深く彫り込んだ弘安9年(1286)のもの。
三具足を飾る来迎阿弥陀図像が見事に陰刻されているものは延徳2年(1490)の作で、夜念仏結衆が満願に当たって建立したもの。
十三仏庚申待供養碑は十三仏の梵字と庚申を併せて刻んだ珍しい遺物である。
石灯籠 三つ葉葵の紋章

本堂の手前両脇に大きな石灯籠がある。東叡山(上野・寛永寺)の銘があり、笠と火袋に三つ葉葵の紋章がある。慶安五年(1652)松平周防守の文字が読める。錫杖寺にも同じ石灯籠がある。