熊野神社(北区志茂)  北区志茂4-19-1 電話;03-3902-2140
熊野神社(北区志茂)
specer
熊野神社
御祭神 伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)、事解之男命(ことさかのおのみこと)
御神徳 家運隆昌 交通安全 厄除開運等
(由緒)
当社の創建については明かではありませんが、別当院である西蓮寺の鐘銘に「正和壬子年八月先師淳慶阿闍利従紀州奉勧請熊野三社権現為当郷鎮守」とした旨が彫られています。当時の西蓮寺住職淳慶阿闍利(じゅんけいあじゃり)という僧が紀州(和歌山県及び三重県の一部)より熊野神社権現を勧請して正和元年(1312)八月に下村(現在の志茂)の鎮守として記されています。2月7日には全国でも珍しい白酒祭りが行われます。なお、現在の社殿は明治百年事業として、昭和43年に改築竣工したものです。

末社 阿夫利神社・浅間神社・大六天神社・十二社神社
阿夫利神社 祭神 大山津見神(おおやまつみのかみ)
浅間神社  祭神 木花之佐久夜比売神(このはなのさくやひめのかみ)
大六天神社 祭神 面足之神(おもたるのかみ)
十二社神社 祭神 速玉之男神(はやたまのおのかみ)

御社殿右の末社には 以上四社が祀られています。この社殿は旧熊野神社の御本殿です。これら四社は「講」として、村人が本来本殿に参拝するところ、当時の交通手段では多くの方が出向くことは容易でなく、有志の方によりご本社より勧請し鎮守と一体にして氏子の信仰を仰いで今日まで来ています。なかでも、阿夫利神社祭は、5月7日に五色の御幣を数十本奉納し参冀者家内安全繁栄を願い授与しています。
specer

白酒祭(オビシャ行事)

白酒祭(オビシャ行事)


ここでは全国でも珍しい白酒祭(オビシャ行事)が2月7日にが行われる。
小学生も参加して盛大です。 境内に北区教育委員会の説明板が立っているので右に記に写した。

オビシャ祭事 オビシャお祓い
オビシャ射手 オビシャ的
神楽殿 参道
specer
東京都北区指定無形民俗文化財

熊野神社の白酒祭(オビシャ行事)

北区志茂4−19−1、熊野神社境内
熊野神社は、鎌倉時代末期の正和元年(1312)8月、下村の西蓮寺住職であった淳慶が紀州の熊野三社権現の分霊を招き迎えて創建したと伝えられています。以来、同社は今日まで村の鎮守として志茂地区の神事・祭礼の中心をなしてきました。境内には、享和4年(1804)正月建立の石鳥居、欄干の擬宝珠に文政5年(1822)の年紀がみられる阿夫利神社や嘉永2年(1849)3月建立の富士講村上派の供養塔などがあります。
毎年2月7日に同社では白酒祭と呼ばれる行事が行われます。この行事は元来正月七日の年占いの神事である歩射(オビシャ)の後に饗宴として催されていたものです。祭では墨で丸く書いた円の中に鬼という字を書いて拵えた的を用意し、これを総代ら射手が弓矢で射抜きます。かっては歩射に使用した矢は魔除けになると言われ、籤(くじ)に当たった者が持ち帰れました。歩射が終了すると、主催者が参拝者に白酒(今は甘酒)と切餅を振舞います。この祭の名前の由来ともなった白酒は、元々は祭にあわせてズシと呼ばれる村落内組織が持ち回りで荒川の水を汲んで仕込んだと伝えられています。
関東では千葉県・埼玉県の川沿いに多く見られるビシャ行事ですが、都内で伝承されている事例はきわめて少なく、志茂地区の風俗習慣を理解する上で大変貴重な文化財です。 (平成15年1月 北区教育委員会)
specer

神木 梛の木(なぎのき)

梛の木(なぎのき)

梛の木の葉
神木 梛の木(ナギの木)
梛の木は遠く中国の海南島や台湾等に自生するが、太古黒潮ラインに乗り本邦南紀四国九州島の温暖な地方に定着したイチヰ科の雌雄異株の常緑の高木です。
梛の木は伊豆半島が北限であると伝えられ、当神社の梛の故郷伊豆山神社には「此の木は他国に稀なり」と記して有り、東京の北辺当神社で育つとは、と感激して居ります(地球温暖化のためか)。
梛の木は古代より神社の境内に植えられて居り、奈良春日神社には平安期900年頃の巨木有り、伊豆山神社には今を去る1,400余年の昔、山岳信仰の道開きとも仰がれる役の行者(小角)が
   神木梛の樹上に大神の御影を拝してなぎの葉は
   千代に三千代を重ねつつ夫婦妹背の道はかはらず
と歌われた誌が有ります。
鎌倉の尼将軍と名をは>せた北条政子が若き日に伊豆山に配流されていた源頼朝と梛の木の下で愛を誓って結ばれたロマンが良縁が結ばれる縁結びの神木とされます。後に、1192年源頼朝鎌倉に幕府を開く。
他にも梛の木の文献が数多くありますが、当熊野神社の本宮 紀州熊野神社那智の大社には平重盛が植えたといわれる樹齢1,000年の梛の巨木有り。
千古の昔より信仰熱く当神社にも「縁結び」の神々が坐します梛の木との関わり深く神木として大切に生育したいと思います。
  平成13年11月 熊野神社   案内板より

また、その名が「凪」に通じることから船乗りの信仰を集めたが、船乗りだけでなく、一般の人たちもその葉を災難よけにお守り袋や鏡の裏に入れる風習もあった。長さ4〜6cm、幅 1.7〜2cmの光沢のある葉は筋が強く、いくら引っ張っても切れないというので、夫婦の絆が切れることのないよう願いを込めて鏡の裏に入れたという話や、鏡の裏に入れておくと会いたいと思う人が鏡面に現れるという話など、この木にまつわる伝説は多い。

当神社の末社に椰野原稲荷神社があります。荒川河川敷一帯は「棚の原」と呼ばれてナギが育っていた裏付けるものとされる。対岸の川口市に元郷村があり、志茂に飛び地がありました。そこへ通うために村営の「柵の原の渡し」があった。この渡しは、大正年間に荒川放水路の開削によって姿を消しました。当社は当時まで鎮座した場所より現在の地に移築されました。 荒川に沿って流れる対岸の芝川に架かる「なぎのはし」が現存します。

水神宮・椰野原稲荷神社・末社

水神宮
写真左は水神宮、神社の由緒書によれば。
御祭神 水波之売神(みずはのめのかみ)
穀物の豊作と洪水災害、農村の水の恵を祈願されてきていますが、当社は後生まで水の有り難さを求め、現在数少ない水神祭を引き継ぎ行っています。

【関連】 近隣の水神宮特集

写真下の右は、旧熊野神社の御本殿でした。祀ってあるのは以下の四社。
阿夫利神社・浅間神社・大六天神社・十二社神社
specer
合祀四社
写真左は、椰野原(なぎのはら)稲荷神社。
【神社由緒書を写す】 御祭神 宇加御魂神(うかのみたまのかみ)
荒川放水路は明治・大正時代 東京都埼玉一帯が大雨により洪水が発生し、住民が毎年悲惨な思いをしていた過程で建設されました。椰野原は荒川河川敷一帯を表し、ナギが生息していた証でしょう。下村(現・志茂)に対岸の川口市元郷村の飛び地がrって、放水路のできるまで畑として作物を生産するため村営の「ナギの原の渡し」もあった。その地に当社は鎮座し五穀豊穣と家内安全をの信仰を仰いでいましたが、放水路の建設により現在の地に移築されました。