源長寺
川口市赤山1285 浄土宗
源長寺をお参りするに至った経緯。見沼で伊奈半十郎忠治が行った農業用見沼ダム(見沼溜井)のことを知り、その拠点が
赤山城趾
にあることで訪ね、そして、伊奈家の菩提寺が源長寺でした。
伊奈家も盤石でなかった。十代忠尊(埼玉県教育委員会の解説では十二代)のとき跡目相続問題で関東郡代を罷免される。赤山の陣屋は取り壊され、家臣もあちこちへちらばってしまった。当主は大名家で蟄居の身となる。ただ、伊奈家歴代の勲功は大きく、幕府は十四代忠盈(17歳)に伊奈家の名跡を継がせ、武蔵国秩父と常陸国信太郡内の内1,000石を受け小普請に任ぜられ、旗本として幕末にいたった。
源長寺も広大な寺領をもち権勢を誇り続けてきたが伊奈氏の経済的失調により規模を縮小せざるを得なかった。終戦後の農地解放政策もあって境内墓地の寺域約一町歩(1ha)が残ったに過ぎなかった。
昭和63年(1988)5月15日、本堂、庫裡の新築、境内の植栽整備を同時に完成をみる。
参考:イイナパーク
上、本尊の阿弥陀如来坐像 下、浄土宗宗祖・法然上人像
下、境内や隣接の畑地から出土した板碑
下、頌徳碑(しょうとくひ)は川口市指定文化財
下・伊奈氏の墓所
源長寺は、伊奈氏の菩提寺として、4代忠克以後の代々の墓があり、5代忠常建立の頒徳碑には忠次、忠政、忠治の業績が刻まれている。
赤山城址
は北方に隣接する。
伊奈氏は、家康関東入国と共に鴻巣・小室領一万石を給され。熊蔵忠次以後12代にわたって関東郡代職にあり、関八州の幕領を管轄し、貢税、水利、新田開発等にあたった。3代忠治の時に、赤山領として幕府から7千石を賜り、寛永六年(1629)に小室(現北足立郡伊奈町)から赤山の地に陣屋を移した。これが赤山城で、以来10代163年間伊奈氏が居城したものである。
(埼玉県教育委員会より)