香取神社(赤羽)  北区赤羽西2−22−7
香取神社(赤羽)

参道spacer神楽殿
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マップ 香取神社は武蔵野台地の端の起伏に富んだ地形の中で台地上部に位置する。駐車場はない。岩槻街道にある交番を曲り、坂を上って頂上手前の道を左折するか、その先の下り道を左折してもたどり着ける。どちらもすれ違い出来ないほどの道。歩きの場合、岩槻街道の題目塔がある交差点を入る。右側は崖になっているがその上部にある。登り口は、先の二股を右に進めばすぐにある。かなり急勾配で39段の石段である(写真下)。
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石段
境内稲荷社
近隣の神社仏閣を巡っていますが、境内神社に稲荷社を祀っているところは大変多いです。ここも、伏見稲荷大社を勧請して祀っています。でも、三本鳥居まであるのはここだけです。「近隣で番の稲荷社」と称しても間違いありません。
赤鳥居の水平部分が傾いてます。撮影の仕方が悪いのかと確かめに行きましたが、やはり右側が低いです。そこで、伏見稲荷大社の千本鳥居 を見ましたらやはり傾いていました。きっと何かいわれがあるのでしょうが、短時間の調べでは分かりませんでした。
(注) 2本の柱の上に笠木(かさぎ)および島木(しまぎ)を渡し、その下に貫(ぬき)を入れて柱を固定したのが一般的な鳥居の構造です。
伏見稲荷額束 額束説明図
末社
左の祠に榛名、古峯、阿夫利、御嶽神社が合祀されている。
他には、昔、静勝寺裏の亀が池、その東に建っていた諏訪神社を明治42年9月、香取神社に合祀したという記録がある。

左下写真の七つの石は、その一つに「さし石」と刻まれている力石です。
  江戸時代後期から明治時代にかけて、稲付村では春の彼岸が過ぎたころ、少しの間、農作業に暇ができましたので、村の鎮守でもある香取神社の境内に、村内の力自慢の若者たちが集まって、石の「サシアゲ」などして、力比べをしたと言います。
  七つある力石の内、五つの石に重さが刻まれています。軽いものでも19貫目(約71
Kg)、重いものでは50貫目(206Kg)もあります。また、六つの石には「小川留五郎」と名前が刻まれています、留五郎さんは、稲付村一里塚付近にある根子屋(ねこや)の小川家の人で、力が強く、村相撲の大関を勤めたといいます、石鳥居の脇にある明治39年(1906)5月建立「日露戦没祈念碑」の有志者連名中にもその名が見られます。明治40年(1965)6月13日に51歳でなくなりました。力石は小川家に保管されていましたが、昭和40年(1965)頃に香取神社へ奉納され、現在に至っています。
  力石は、鎮守の祭礼などで、これを持ち上げて、神意をはかるための石占いに用いられ、後には、若者たちの力比べをするための用具ともなっていきました。この力石は往時の稲付村の風俗・習慣を示す貴重な文化財です。
(平成8年3月、北区教育委会)

さし石