小圓朝トップ 小円朝資料室 略歴
祝! 真打ち昇進  (『東京かわら版』5月号・2005年5月6日掲載)
── 子どもの頃から落語はお好きだつたんですか?
小円朝 親父(三代目三遊亭円之助)が土日になると後楽園に野球を見に連れてってくれるんです。でも巨人戦は混んでるから連れてかないの。だからいまだに日ハムファン(笑)。でもその前に親父は池袋演芸場で一席。客席の後ろから見てました。
 小学校に落語研究会がありましてね、下赤塚の北町西小学校。みんなは本を見たりして覚えるんですが、私は家にあった親父のテープを聴く。だからバレの小噺やなんかもそのまんま、意味もわからずやってました。
 ご承知の通り父は噺家ですが、母も芸人の家庭なんです。祖父母が「大江しげる・笙子」という漫才をやっていました。漫才をやめてからも祖母はお囃子をやっていたんです。だからそういう家族なんですね。親戚が集まるとにぎやかで、噺家のあたしが黙っちゃう。
── お父様が倒れられたときはまだ小学生?
小円朝 はい。三平師匠のご紹介で中伊豆のリハビリセンターへいってました。わざわざ三平師匠が付き添ってくれまして、海老名家のベンツで連れてって下すったんですよ。
 当人は貧乏で苦労した人ですから、普通は息子に同じ商売勧めたりしないでしょ?でも何か感じるところがあったんでしょう、亡くなる三月前くらいだったか、私を枕元に呼んで「お前は噺家になれ」と。その時は返事をしなかったんですがそれからすぐに亡くなりましたから、遺言めいたものを感じました。高較をやめてからいろんな仕事をして、22歳の時に(新宿)末広亭の杉田恭子さん(前席亭・故人)のご紹介で(柳家)小三治師匠に入門しました。同い年のやつらは大学出て就職だし、ちょうど同じスタートラインに立てると思って。でも二年たって破門になってしまいました。
── でも噺家になりたいという気持ちは‥・
小円朝 かわりませんでした。で、今の師匠(三遊亭円橘)のところにいったんですが、やはりすぐ入門とはなりませんでした。金もないですから、まずはアルバイトをしろと。大工ですよ。重くて長い材木担ぎながら「『唐茄子屋政談』だあ〜」って思いました。親方は深川の江戸っ子でしたし、その時の経験は今の高座に生さています。そして一年経って再人門が叶ったとき、二ツ目になったときも、帥匠と一緒に小三治師匠にご挨拶に伺いました。
── 師匠が変わると稽古も変わりますか?
小円朝 こっちへ来て最初は三べんだったんですよ。15分程の十徳がおぼえられないで苦労しました。でも集中力を養うのにはとても良かったです。
── 先代(三代目小円朝)とはお会いになってらっしゃるんです
か?
小円朝 はい。あたしが四つの時に亡くなってるんですが、ほんの短い間うちにいらしたんです。お子さんがいらっしゃらなかったので弟子である父や師匠(円橘)がお世話を致しておりました。私はまだ子供ですからねえ、本当のおじいちゃんだと思ってました。一週開くらいの事だったと思うんですが、鮮明に覚えてます。幼稚園から帰るとうちに寝てますでしょ。吸い口でお水のませてあげたりして。「普通子供は嫌がるのに、お前は変わってるね」って、母が言ってました。私の一番古い記憶です。
── 小円朝襲名はどのような経緯で?
小円朝 2001年の正月、(大師匠の)円楽から全楽兄さんを春に、私を秋に小円朝で真打昇進というお話を頂きましたが、うちの師匠から、先代の三十三回忌にあたる4年後に襲名させたいということで、2005年となりました。
── 4年のうちに心構えはできましたか?
小円朝 そうですね。「それまでにこの噺を覚えよう」とか、目標に向けての努力はできました。円之助という名に愛着もありますが、小円朝を継ぐ以上、この名を私の手でもっと大きくしなければ、というプレッシャーはあります。
── これからはどんな噺を手がけたいですか?
小円朝 先代の持ちネタで珍しいものがありますので、それは手がけていきたいと思っております。今までにも「はなむけ」「辻駕寵」「富士詣り」「探偵うどん」など演りました。「あくび指南」なんかでも演り口が違いますし。「よいよいそば」なんて、演らないでしょ?(笑)うちの師匠も入門して間もなく師匠が倒れてますから噺は少ししか教わってないと思うんですよ。でも先代は東大の方に教えてますから、口伝ではない、間は開いてしましましたが、それをなんとか繋いで縦承していきたいと思ってます。ここまでしてくれた師匠、先代の芸を本(『三遊亭小円朝集』東大落語会編・青蛙房・昭
和44年)にまとめて下さった東大の皆さん、そして来て下さるお客様にも、いい高座をつとめて恩返しがしたいです。
── ますますのご活躍を楽しみにしております。
小円朝 ありがとうございます。
       (構成・インタビュー=田谷悠紀)



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