荒川が荒川放水路と隅田川に別れる地点
明治43年(1910)夏に発生した豪雨による大洪水で、江戸時代以来の堤防が決壊し、東京を中心に浸水は約27万戸、被災者約150万人という被害を出した。
政府は抜本的な荒川改修に乗り出した。その基本プランは、岩淵から下流に隅田川から分岐する形で、全長約22km、幅約500mの荒川放水路を開削すること、かつ、洪水時には隅田川の増水を抑えるために岩淵水門を設けて、隅田川の入口を塞ぐといういうものであった。
工事はパナマ運河の開通に携わった技師・青山工を中心に当時の最新技術を導入した大規模なものであった。そして20年の歳月を経て、大正13年(1924)に岩淵水門が、そして昭和5年(1930)には荒川放水路が全開通した。
工事費3144万円という多大な支出と引き換えに、荒川下流での治水は大きな進展を見たのである。
旧岩淵水門は荒川と隅田川の境を担う水門で、大正5年(1916)から8年間の歳月をかけて建設されました。川底から20mの深さにコンクリート枠6個を埋めて固めてある。
その後、旧岩淵水門が老朽化したことや、もっと大きな洪水にも対応できるようにと、昭和50年(1975)から新しい水門(下流に作った青い水門)の工事が進められ、昭和57年に完成し、旧岩淵水門の役割は新しい水門に引き継がれました。
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