木曽呂の富士塚
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木曽呂の富士塚
 富士塚は富士山を模して築造した塚で、江戸高田の行者藤四郎が、老若男女だれでも心やすく富士に登山できるようにと、安永9年(1780)高田水稲荷の境内にこれを築いたのが始まりである。
木曽呂の富士塚は、地元で「ふじやま」または「木曽呂浅間」と呼ばれ、寛政12年(1800)に富士講の一派である丸参講の信者蓮見知重の発願によって、見沼代用水と通船堀の連結点の縁に築造されたもので、高さ5.4m、直径20m、塚全体が盛土で築かれている。頂上には火口を見立てた穴がありお鉢巡りができ、中腹には、お鉢巡りができるよう火口が掘ってあり、又、今日では入口が埋没しているが、塚を貫いて胎内くぐりの穴を設けている。
富士塚の麓には、文化2年(1805)造立の蓮見知重の碑があり、富士塚築造の由緒が刻まれている。
  国指定文化財 川口市文化財リスト
※写真左側の奥方面に本物の富士山が見える。
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木曽呂の富士塚裏側 胎内くぐりの穴
後ろの見沼代用水東縁側から見た富士塚 塚を貫いて胎内くぐりの穴を設けている
富士塚頂上から下界を望む 大日如来
富士塚頂上から下界を望む 大日如来
木曽呂の富士塚の山頂本殿 木曽呂の富士塚の山頂本殿
木曽呂の富士塚の山頂本殿 木曽呂の富士塚の山頂本殿
木曽路の富士塚
国指定 有形民俗文化財 木曾呂の富士塚
昭和五十五年四月二十四日指定
 富士塚は富士山を模して築造した塚で、江戸高田の行者藤四郎が、老若男女だれでも心安く富士に登山できるようにと、安永九年(1780)高田水稲荷(みずいなり)の境内にこれを築いたのが始まりである。  木曽呂の富士塚は、地元で「ふじやま」または「木曽呂浅間」と呼ばれ、寛政十二年(1800)に富士講の一派である丸参講(まるさんこう)の信者蓮見知重(はすみともしげ)の発願によって、見沼代用水と通船堀(つうせんぼり)の連結点の縁に築造されたもので、高さ5.4m、直径約20m、塚全体が盛土で築かれている。頂上にはお鉢巡りができるように火口が掘ってあり、又、今日では入口が埋没しているが、塚を貫いて胎内くぐりの穴を設けている  富士塚の麓には、文化二年(1804)の石灯籠天保年(1833)の石鳥居等丸、参請によって造立された石造物が多く残されている、富士塚の中でも古い築造で、とくに埼玉県下のものでは最も古く、庶民信仰の様相を示すもので、貴重である。

木曽呂富士塚造営物
1−灯籠、 2−、 3−鳥居、 4−お手洗石、 5−、 6−、 7−墓誌、8−石仏(如来?)、  9−地蔵尊像、 10−富士登山三十三度修行(高津条之助)碑、 11−伊勢太々碑、 12−鹿島太々碑、 13−登山隔年修行碑、14−登山三十三度(真行明山)碑、 15−経碑、 16−石管、 17−シモガミ
文化庁・埼玉教育委員会・川口市教育委員会・蓮見武夫

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