金剛寺(滝野川)(紅葉寺) 滝河山 真言宗豊山派 滝野川3-88-17 |
【金剛寺案内】 本堂|本尊|山門|仏足跡 弁天堂・像|釈迦堂・像 大師修行像|石仏|水子地蔵 広重の名所江戸百景「瀧の川」 山門脇に設置された北区教育委員会の説明板があるので下記に転写します。 本堂の右側に石神井川が流れている。 金剛寺を訪ねた直接の目的は弘法大師像を撮るためでした。すると、そこには源頼朝に縁の弁天伝説があり、新企画「弁財天」特集が浮かんだのでした。古刹は独特の重厚さがあり長い歴史は安心する。 |
源頼朝の布陣伝承地 (金剛寺境内地) 治承4(1180)年8月、鎌倉幕府初代将軍の源頼朝は配流先の伊豆で挙兵し、石橋山の合戦で敗れて安房に逃れましたが、上総・下総を経て墨田川を渡り、滝野川・板橋から府中六所明神に向かい、ここから鎌倉に入って政権を樹立します。 この途次の10月、頼朝は軍勢を率いて滝野川の松橋に陣をとったといわれてます。松橋とは、当時の金剛山の寺域を中心とする地名で、ここから見る石神井川の流域は、両岸の岩が切り立って松や楓があり、深山幽谷の趣をもっていました。崖下の洞窟には、弘法大師の作と伝えられる石の弁財天が祀られていましたが、頼朝は、弁財天の祈願して金剛寺の寺域の弁天堂を建立し、所領の田地を寄進したと伝えられます。 金剛寺は紅葉寺とも称されますが、これは、この地域が弁天の滝や紅葉の名所として知られていたことに由来するからです。 平成元年3月 北区教育委員会 江戸名所図会より 滝河山(りゅうかざん)金剛寺 松橋院と号す(松橋弁天境内に安ず)。弘法大師の開基にして、本尊不動尊はすなはち大師の作なり。その後あまたの星霜を経て荒廃におよび、他の宗風に化せり、天文(1532〜55)の頃、中興阿閣梨看印(あじやりかんいん)なるもの、曩祖(のうそ)開基の霊地をして他の宗風に転ぜしことを欺き、その頃北条氏康(1515〜71)に訟へて再び真言の霊区に復せしむとぞ。 |