堂山(赤羽北)阿弥陀堂山を略した呼称
赤羽北1丁目5番にある高さ16mの孤丘
赤羽台地から僅かに離れてい孤丘。荒川の浸食作用から免れて生き残ったことを物語る極めて珍しい自然現象といえる。近くの真頂院持。
昔、頂上に阿弥陀堂が建てられていたことで阿弥陀堂山を略した呼称だという。
石段の登り口の左右に石地蔵がある。右の地蔵は寛保二年(1742)、石段供養(完成)と記されている。するとこの石段は270年前のものと言うことか。
写真下は頂上の平地と眺め、JR鉄橋と満蔵院
堂山には八百比丘尼と結びいた伝説があります。まず、この物語は愛知県春日井市のHPより八百比丘尼(やおびくに、はっぴゃくびくにと読む両説あり)の誕生話から始まります。
愛知県 春日井市高蔵寺町に円福寺があり、その近くの海で人魚が捕れたそうな。その肉をひょんな事から口にした娘さんが不老長寿を得たけれども、800歳の長生きには嫌気がさして尼さんになり、最後は若狭国(福井県)小浜の洞窟に入ったまま出てこなくなった。・・と話は終わってます。
詳しくは
春日井市の「八百比丘尼物語」
をご覧下さい
若狭の洞窟へはいる前に色々な地方を放浪したらしく、赤羽北(旧袋村)の堂山に住んだという言い伝えがある。その話は「北区の昔がたり」(北区教育委員会発行)の小冊子の中にありました。在庫はないから図書館で見るしかない。
堂山の八百比丘尼
今から千年以上も音のことであります。当時の東京湾はとても深く入り込んでいて、現在の堂山は海中の小島だったそうです。その小島に、ある日尊い仏像を携えた尼さんが小舟に乗って流れ者きました。その尼さんがあの有名な八百比丘尼でした。この尼さんは娘のころ世にも珍らしい人魚の肉を食べたとかで、それからは年をとらなくなり八百歳までも生き長らえたといいます。
長生きしたのはいいが、親兄弟や村人も死んでしまい、残された彼女は無情を感じて尼となって諸国修業に旅立ったのでした。その有名な尼さんが仏像を携えて小島に流れついたのを知った村人達は大変に喜んで、新しくお堂を建てて尼を住まわせ、教えを受けたといいます。そのいわれを詠みこんだ「堂山和讃」がこの地に伝わっており、かっては、善男善女がこの堂山のお堂に集って『帰命頂礼(きみようちようらい)袋村、堂山上にたち給う、阿弥陀如来はその昔、此辺千尋(ちひろ)の海の時、若狭の国より舟に乗り、八百比丘尼が来りけり……』と随喜(ずいき)の涙を流しながら繰返し唱和していたといいます。
今ではお堂もなくなり、和讃も聞かれません。尼が流れ着いた時に舟のとも綱をつないだ杭に芽がふいて成長し、大木になったものの、上に伸びないで横にのぴたので「倒れ松」と呼ばれたといいますが、どの辺りに生えていたのでしょうか。なお付近にその時乗ってきた小舟が埋まっているとも伝えられています。
今から千年以上も音のことであります。当時の東京湾はとても深く入り込んでいて、現在の堂山は海中の小島だったそうです。その小島に、ある日尊い仏像を携えた尼さんが小舟に乗って流れ者きました。その尼さんがあの有名な八百比丘尼でした。この尼さんは娘のころ世にも珍らしい人魚の肉を食べたとかで、それからは年をとらなくなり八百歳までも生き長らえたといいます。
長生きしたのはいいが、親兄弟や村人も死んでしまい、残された彼女は無情を感じて尼となって諸国修業に旅立ったのでした。その有名な尼さんが仏像を携えて小島に流れついたのを知った村人達は大変に喜んで、新しくお堂を建てて尼を住まわせ、教えを受けたといいます。そのいわれを詠みこんだ「堂山和讃」がこの地に伝わっており、かっては、善男善女がこの堂山のお堂に集って『帰命頂礼(きみようちようらい)袋村、堂山上にたち給う、阿弥陀如来はその昔、此辺千尋(ちひろ)の海の時、若狭の国より舟に乗り、八百比丘尼が来りけり……』と随喜(ずいき)の涙を流しながら繰返し唱和していたといいます。
今ではお堂もなくなり、和讃も聞かれません。尼が流れ着いた時に舟のとも綱をつないだ杭に芽がふいて成長し、大木になったものの、上に伸びないで横にのぴたので「倒れ松」と呼ばれたといいますが、どの辺りに生えていたのでしょうか。なお付近にその時乗ってきた小舟が埋まっているとも伝えられています。