写真上は山王神社(拝殿)、階段脇に解説板があるので下記に引用した。
【赤山−山王神社界隈の風景】
この山王神社は、学問の神様である天神社、武家の守護神である八幡社、そして徳川に縁の深い山王社によって構成されている。三社は往時は、境内に各々鳥居を構え、別棟として建立されていたが、陣屋廃絶後幕末までは荒廃に任せていた。明治になり合祀、赤山村の村社として祀り現在に至っている。今に残る築山は、空堀掘削時の廃土を盛り、築いたと伝えられている。
現在は、築山と参道を残すのみとなっているが、かつての社域は、参道の先に山王沼新田が広がっており、また、陣屋の守り神として鬼門にすえられた御陣山稲荷とともに、広大な陣屋の中での神域を構成していた。
八幡社は、伊奈家の守り神として赤山伊奈家三代忠常(注・五代)により創建された。宝永四年(1707)五代忠順(注・七代)は父母の報恩と伊奈家の繁栄を願い、宮域に松や杉を植えて整備し、安山岩小松石製の
石祠を建立した。
川口市教育委員会 平成5年3月
【八幡宮石祠(写真右)】
川口指定文化財 昭和52年5月10日指定
伊奈半十郎忠順が宝永四年(1707)十一月忠常の子(第2子)として、父母の報恩と伊奈家の繁栄を願って宮城を整備し、山王社の傍らに建碑した安山岩小松石製の石祠(せきし)です。祠とは、ほこら・やしろ・みたまやなどの意味があることから、この石製の祠は八幡神のみたまやということになります。
裏面に刻まれた銘文は、次のように読み下すことができます。
「当初の八幡宮は、予(忠順のこと)の祖父忠常(伊奈家五代)が、寛文十二年(1673)7月剏(はじ)て建立せし所なり、予はもとより慈母の願望有る故に、宝永四丁亥載秋九月其の宮境を清めここに松杉を樹し、以て経界と為し再び其の旧制に経営す。尚乎ば神助を以て子孫の繁栄せんことを。領主伊奈源忠順之を誌す。宝永四丁亥年十一月吉辰」
写真右、『赤山山王権現社本殿付覆屋と内部狛犬』も
川口指定文化財。
八幡宮石祠が建立された宝永4年11月、まさにこの年この月、11月23日午前10時、富士山の大噴火があり、伊奈半十郎忠順(ただのぶ)は郡代としてその復旧に当たったのだが、その様子は、新田次郎氏の「怒る富士」で取り上げられている。難民に幕府の備蓄米を強引に放出し、その責めを負って切腹する。小説の中に右の石祠のことが出てくるので印象的だ。
→新田次郎「怒る富士」