善徳寺 赤羽西6-1-21 浄土宗別格
【施設案内】
山号:獅子吼山専稱院 浄土宗 別格
本尊:阿弥陀如来立像
享徳2年江戸城西坪根沢に起立、その後平河町、大船町、馬喰町への移転を経て、明暦3年浅草新寺町(松が谷1-13)へ移転しました。関東大震災後、大正14年9月22日、当地へ移転しています。
ここの節分会は赤羽の宝憧院とともに知られている。
門前脇に北区の説明板が立っていたので下に転写しました。
お竹如来
お竹は羽黒山麓の山形庄内に生まれて、18歳で大伝馬町の豪商、佐久間勘解由(さくまかげゆ)の屋敷に仕える奉公人となりました(佐久間家を馬込家とする説もあります)。
武蔵国熊谷に乗蓮(じょうれん)という羽黒山伏がいました。毎年、出羽三山への参詣を続け、ようやく三十三年目の満願の日を迎えます。玄良坊の宿坊で寝ていると夢でこんなお告げがあったのです。
「江戸大伝馬町の佐久間家の奉公人、お竹は大日如来の御化身である」と。
それはぜひ会わねばと、乗連は玄良坊とともに佐久間家を訪ねます。そして、お告げの内容を伝えました。
驚いたのは佐久間の主人。
そんなありがたい女性に奉公人などさせるわけにいかないと、お竹さんのために持仏堂(日常的に礼拝する持仏や先祖の位牌を安置する堂や部屋)を用意するのです。
それからというもの、お竹さんは念仏を唱える日々。そんな彼女を拝もうと佐久間家には多くの人が訪れ、列をなしたそうです。
お竹の墓碑によれば、亡くなったのは1680年のこと。善行を尽くしてこの世を去りました。
馬込家墓
北区赤羽西6−15−21 善徳寺墓地内
善徳寺の墓域内には、江戸時代、大伝馬町の御伝馬役名主として活躍した馬込家の墓があります。
御伝馬役とは、江戸伝馬役と呼ばれるもので、大小の伝馬町と南伝馬町・四谷伝馬町が五街道と江戸府内近郊へ人馬を継ぎ立てる夫役をいいます。町名主の馬込家は代々、この運営にあたりました。また、他の町で同様の役職にある名主とともに、名字・帯刀を許可され、町名主の筆頭として年頭に将軍家のお目見えが許されていました。
馬込家は、遠江国敷智群(ふちぐん)馬込村(浜松市)の出身といわれ、本名を平八、当主になると勘解由(かけゆ)と称していました。馬込という家名は元和元年(1615)5月、大阪落城の後、浜松宿の馬込橋まで徳川家康を迎えたとき、
500人の人足を引き連れて迎えたことを喜んだ家康から与えられたと伝えています。
最初、菩提寺は増上寺でしたが、その後、増上寺開山聖聡の弟子の楽誉聡林が開基した善徳寺の檀家となりました。墓地は、善徳寺が数度の火災を受けて、日本橋馬喰町・浅草松葉町へと移転したのに伴って移されましたが、関東大震災によって罹災したため、昭和2年(1927)4月に赤羽へ移転した善徳寺とともに現在地へと移りました。
平成8年3月 北区教育委員会