諏訪神社(赤羽北) 北区赤羽北3-1-2
諏訪神社


神楽殿 神楽殿
神楽殿

御神木の榧の木、頭がない

左が猿田彦神社、右が白山神社 須賀神社、稲荷神社、大六天神社、八幡神社
写真左が猿田彦神社、右が白山神社です 須賀神社、稲荷神社、大六天神社、八幡神社
4基の庚申塔と真言を百万遍唱えた供養塔 富士登山講、庚申塔、坂の修理記念塔など
3基の庚申塔と真言を百万遍唱えた供養塔 富士登山講、庚申塔、坂の修理記念塔など
明治時代の標石型の水準点
諏訪本社から両方の袂に入れて持ち帰った袂杉 明治時代の標石型の水準点、これが基準点の第1号
インド項王の名がある石碑 インド項王の名がある石碑
インド項王の名がある石碑
神社裏手この石碑は鎮座している。大きさは2メートルくらい。石碑中央に彫られているのは文字なのか記号なのか不思議な形をしています。それで、写真を拡大したら右側に「昭和三十七年八月」、左側には 「印度国国王」と刻まれています。中央の文字はどういう意味なのかを調べました。幸い、浮間には「東京外語学園日本語学校」 があり、生徒にはインドの人もいるだろうと訪ねて行きました。答はすぐに返ってきました。
「これはバングラ語の文字です。インドでは『本当のことを言います』と言う意味です。インドのお金にはこの言葉が印刷されています」。
文字は横書きで書きにして、「ソットモボジュデ」と発音するらしい。
宮の坂からの石段
宮の坂からの石段 猿田彦の石碑
彫刻の板 彫刻の板
本殿の左右の外壁に取付けられた通行止め彫り物

諏訪神社

北区赤羽北三丁目鎮座
祭神 建御名方命
【神社作成の由緒】
当社は別当寺であった真頂院の寺伝によれば応永3年(1369)9月同院第一世秀善和尚が創立したものと伝えられております。かって社前には袂杉と呼ばれた名木があり、この神社の神木となっていました。これはいつの頃か真頂院の和尚が諏訪(長野県)から両方の袂に入れて持ってきた杉苗をこの神社の前と後ろに植えたもののうちの前のものと伝えられています。
現在、この切株が本殿の裏に移されて残っています。
新篇武藏風土稿にはこの神社の末社に丸山権現と山王社があり、丸山権現がかっての袋村の鎮守で後にこの神社に改められたことや、山王社の傍の石碑(山王権現の石碑)寛政12年(1800)建立に建久5年(1194)勧請と彫られているが、その出所は不明であることが記されています。
(昭和57年8月22日)

【北区教育委員会作成の説明板】

諏訪神社

北区赤羽北3−1−2
祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)です。別当寺であった真頂院(足立郡川口宿錫杖寺末寺)の寺伝によれば応永3年(1369)9月同院第一世秀善和尚が創立したものだそうです。末社には、稲荷神社二社、八幡神社、須賀神社、白山神社、猿太彦神社があり、それぞれ、宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)、品陀和氣命(ぼんだわけのみこと・応神天皇)、須佐之男命(すさのおのみこと)、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、猿田彦命(さるたひこのみこと)を祀っています。
『新篇武藏風土稿』には、神社の末社である丸山権現がかっての袋村の鎮守で、後にこの諏訪神社に改められたことが記されています。
かって社前には袂杉と呼ばれた名木があり、神社の御神木となっていました。これは真頂院の和尚が諏訪(長野県)から両方の袂に入れて持ち帰り、神社の前後に植えた杉苗の一つです。
現在、この切株が本殿の裏に移されて残っています。(平成14年10月)