浮間橋の碑
浮間橋の碑
北区浮間1−1(左岸)
 荒川は江戸時代より洪水が多く、「荒れ狂う」川として知られていました。明治43年(1910)8月の大洪水をきっかけに大規模な河川改修事業に着手します。
 改修では、洪水時の4分の3の水量を流すことができる新しい川(荒川放水路)を開削する方式がとられ、元の荒川の流水量を調節するために岩淵水門が建設されました。
 しかしその結果、浮間は荒川と新河岸川の間に挟まれ、交通手段を渡船に頼らざるを得なくなりました。そこで浮間地域の人々が、現在の赤羽台4丁目にある東京北社会保険病院付近に駐屯していた近衛師団工兵隊へ計6千円を拠金して架橋を依頼し、昭和3年(1928)5月に幅2間、長さ65間半の木造の橋が完成しました。その記念に建てられたのが大きな碑(旧浮間橋建設記念碑)です。
 橋は昭和9年(1934)に幅8メートルの鋼板鋼桁橋になり、昭和15年(1940)には鉄橋に架け替えられました。しかしその橋もJR(旧国鉄)の東北・上越新幹線の建設計画に伴い再び架け替えられることになったため、旧浮間橋建設記念碑建立に関与した人々の子孫を中心に、記念碑の移設及び顕彰保存を目的とした浮間橋記念碑保存会が設立されました。碑は昭和60年(1985)9月に現在の浮間橋脇に移設され、記念に小さな碑が建てられました。
 地元の人達によって建てられた大小二つの碑は、地域と浮間橋の関わりを永く後世に伝えています。

  平成8年3月(平成17年一部改訂)  東京北区教育委員会
[写真右大きな石碑文]

浮間橋
郊外浮間里有名櫻草鮮
北方隔水路對横曾根邊
西南挟清流望志村翠煙
曩離北足立新併合岩淵
此地如孤島交通常乗船
憂慮萬一事頻希架橋便
里民咸應分醵出金六干
本町請軍衙以實情開陳
近衛工兵来施工盡力研
今日橋梁成如長蛇横川

昭和三年四月二十六日
建於岩淵町大字浮間
小柳通義撰文併書
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実際の碑文は縦書きですが便宜上横書きで表示してあります。
旧説明文
浮間橋の碑
北区浮間1−1(左岸)
 ここに、浮間橋の架橋に至る由来を示す大小二つの碑が建っています。どちらも由来を後世に伝えようとしてたてられました。
 荒川は江戸時代より洪水が多い、荒れ狂う川として知られており、明治43年(1910)8月、関東平野全域と東京の下町をほとんど水浸しとする大洪水が起こりました。翌年、明治政府は洪水時の4分の3の水量を流すことができる新川を作ることを決定し、荒川放水路が設置されることになりました。しかし、この河川改修の結果、浮間は荒川と新河岸川の間に挟まれることになり、交通手段を渡船に頼らざるを得なったのです。そこで浮間の農家約60軒が橋の建設を要望し、合計6千円を醵金(きょきん)して、赤羽台4丁目に国立王子病院跡に駐屯していた近衛師団の工兵隊に架橋を依頼しました。そして昭和の3年(1928)5月、幅2間、長さ65間半の木橋が架けられたと大きな碑には刻まれています。
 その後、浮間橋は昭和9年(1934)秋、鋼板鋼桁製の橋に、昭和15年(1940)3月、鉄製の橋へと架け替えられたのですが、JR(旧国鉄)の東北・上越新幹線の建設計画に伴い再び架け替えられることになりました。そこで大きな碑は、最初の木製の橋を建設した人々の子孫が浮間橋記念碑保存会を設立して、話し合った結果、昭和60年(1985)9月、浮間橋脇に移設されたのです。小さな碑はこの移転の経緯を残すためにたてられました。

  平成8年3月        東京北区教育委員会

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