桜草ロゴ 桜草の歩み
資料協力:北区産業振興課
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☆圃場の沿革
☆桜草植替風景
桜草はプリムラの仲間です。プリムラは、主に北半球の温帯・寒帯や高地に約200種があるとされ、日本には14種が自生しています。その代表種が桜草です。学名をプリムラ・シーボルデイといい、日本から中国東北部にかけて自生する小さな多年草でわが国では四国と沖縄を除いて、各地に分布しています。

自生地は山間原野の湿地帯にあり、群落をつくります。荒川流域の桜草は、元は秩父山中などから流れつき、繁殖したものだと考えられています。

この地は江戸時代から浮間ケ原と呼ばれ、現在の戸田、志村、川口、田島ヶ原などとともに、桜草の自生地として有名でした。かつて、荒川沿岸のこれらの地に大群落をつくった桜草も、現在では埼玉県浦和市の田島ヶ原に苗の面影をとどめるだけとなってしまいました。いま、荒川の堤防に立って浮間を一望すると、むかし荒川の本流であった浮間ケ池をのぞいては、宅地、工業地に変わってしまい、江戸時代に桜草が一面に生えていたということを想像することはできません。

この浮間ケ原の桜草が全国的に知られるようになったのは、江戸幕府の初期のころです。徳川家康は江戸に居城を構えてから、しばしば浮間ケ原に鷹狩りに出ました。その折り、名も知れぬ雑草の中に混じってひっそりと咲いている桜草の可憐さに心をひかれ、持ち帰って観賞したのが始まりであると言われています。その後、各大名や旗本が競って栽培を始め、やがて町民の間 に広まりました。
 当時の桜草愛好家たちは、自然の突然変異による花変わりのものを自生地から採集したり、また、交配によって新種をつくり出すことにも意欲的に取り組みました。そして、文化から天保時代にかけては桜草コンクールも盛んに開かれ、栽培桜草の全盛時代が築き上げられたのです。

その当時の浮間ケ原は桜草が群落をつくり、四月ともなれば一斉に花が咲きそろい、一日の清遊を求める花見客が荒川をさかのぼり、茶店も立ち並んで、桜の名所飛烏山とともに、大いに賑わったものと言われています。

この情景は、昭和の初期まで続きましたが、荒川の改修、築堤工事により荒川の本流が大きく変えられ、そのために桜草の繁殖と生育に必要な荒川の氾濫はなくなってしまいました。また、関東大震災の復興の折、桜草の生育に適していた荒木田土は壁土として乱掘され、浮間の自然環境が急変し、桜草は減少していったのです。それでも昭和22年頃までは、堤防わきや湿地帯に自生の桜草が残っていました。しかし、これらの湿地も、埼玉県の戸田にボートレース場がつくられたときの残土によって埋め立てられ、工業地や宅地に変わっていきました。その後、桜草は、地元の愛好家たちの手で庭先などに保存されるに過ぎなくなりました。そして、昭和37年8月には地元の人々によって浮間桜草保存会が結成され、保存会の人々の心を込めた栽培作業によって、桜草があたり一面に広がる浮間ケ原の面影がよみがえってきました。

江戸時代の浮間ヶ原を想像して描かれた風景画(浮間ヶ原桜草保存会蔵)