高島秋帆は、江戸時代末期、諸外国から攻められる危機を防ぐためにオランダ人に西洋式砲術を学んだ。その後、赤塚・松月院に本陣を置き、門弟100名と起居を共にしながら、徳丸原・高島平で洋式砲術を公開した(1841)。
西洋式砲術を習得しても実際に使う大砲が作れないと意味が無い。製作には困難を続ける中、川口市の鋳物職人が高島と協力して完成させた(1852年)。
下の写真は、高島秋帆を顕彰する目的で建立された記念碑ですが、造形物は高島が製作を指図して鋳造した銅製カノン砲です。根元には弾丸4発を配してあります。
ちなみに、高島平の地名は高島秋帆の名前から付けられた。
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高島秋帆顕彰碑 高島秋帆顕彰碑

 

下の大砲は幕末の嘉永5年(1852年)に津軽藩により依頼を受けた川口市の鋳物職人・増田安次郎が、後に砲術奉行を務めた高島秋帆とが協力して作り上げた18ポンドカノン砲の復元品です。当時は製作不可能とされていた大型砲で、1857年までの5年間に213門の大砲と41,323発の砲弾が製造されて、全国各地に配備されました。写真右は砲弾・弾丸。
全長:3.5m、重量:3トン、口径:15センチ、射程距離:2500m
材質:青銅砲、弾丸:炸裂弾
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増田カノン砲 増田カノン砲弾丸

板橋区立郷土資料館(写真下の右)前に置かれているカノン砲。
近くの赤塚・松月院があり、高島秋帆が1841年に本陣を置き徳丸原で3日間にわたり日本最初の本格的な西洋式砲術を指揮した。その時に使用した大砲が高島も製造に関わった18ポンドカノン砲です。
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カノン砲 板橋区立郷土資料館