縁起碑
縁起碑
【感思微忱 子教】
正覚寺の開基平柳蔵人は平柳領十五ヶ町村の領主にて仁慈英遇であったことは没後四百年を経た今日なお追慕するものの多いことによって知られる。領地は元郷町を本拠とし川口市の東部より南部に亘り、旧南平柳村川口町飯塚町及び鳩ヶ谷町に属する元北平柳村の前田・中居・上新田・小淵・辻の五地域並びに東京都北区浮間町の地域であった。荒川を南面にする要害に拠り足利公方に隷属し岩槻城主太田美濃守の前衛をなした。時代は室町幕府足利十三代将軍義輝(1546年−1567年将軍在住)の頃、関東にては小田原城の北条氏の全盛時代にあたる。蔵人は管名であって父子二代に亘り少なくとも60年以上此の地を治めた。又は柳國院殿覚相永正大居士、子は柳正院殿歓覚永喜大居士と正覚寺の過去帳に記してある。江戸の名刹愛宕山下の青松寺六世久宝玄長を開山として迎えたのは子の蔵人であることは戦死、卒去の年代や法号のよって考えられる。1564年永禄七年正月八日、北条氏康は房州の雄・里見義弘と太田資正の連合軍と鴻臺(千葉県市川市国府台)に一戦して関東の覇を争った。午前の戦は太陽を背にした太田三楽斎らの連合軍の大勝であったが、午後、、北条方の奇襲が奏功して形勢は逆転した。平柳蔵人一族は此の戦いに於いて太田氏の先鋒として奮戦し全滅したようである。蔵人の戦死は1月18日と記されている。父の卒去は永正2年(1505年)であったから実に59年の後にあたる。その後21年、天正13年(1585年)6月25日に開山久宝玄長は示寂した
   銘曰 創建一宇 至考至順 稱正覚寺 号永喜山 歸信玄長 連法宗禅
       英遭断事 仁慈治民 其徳不狐 百世稱傳 鴻臺争覇 力闘奮戦
       傾盡臣節 芳名千年 感思刻石 敬致微忱
   正覚寺二十六世 重興開山 法憧開闢 学習院大学教授 澤口 剛雄 並書
           1965年5月18日 建之