怒る富士
怒る富士
【赤山城址(城趾)】 関連・伊奈氏菩提寺源長寺
赤山城址東堀南堀西堀北堀南西堀
低地地域山王神社御陣山稲荷水車小屋
動物形植木産直のお宅案内図(マップ)
忠治像|新田次郎「怒る富士」|
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怒る富士 上・下 新装版 文春文庫 新田 次郎
     上下とも:定価(本体571円+税)
噴火記録, 宝永噴火によって富士山の東山麓は膨大な火山灰に埋まった。噴火後、飢餓に苦しむ山麓の人々を救済するために立ち上がる関東郡代・伊那半左衛門忠順。

赤山城址(城趾)と伊奈氏を知ったのは、浮間の歴史を調べていたら江戸幕府編纂の『新編武蔵風土記稿』に関東郡代・伊奈氏の記述があったからで、その後、偶然訪れたところが川口市の赤山城址だった。浮間と多少のつながりもあり写真を数枚載せてHP掲載した。
伊奈氏とはまた偶然が重なり、本屋で新田次郎の小説「怒る富士」(文春文庫)の新装版を手にして読むことになった。

時代は江戸時代中期、年号は元禄・宝永時代、5代徳川綱吉と6代家宣にまたがっている。主人公は関東郡代、伊奈半十郎忠順(ただのり)(7代)である。赤山城址(小説では赤芝山陣屋)と郡代屋敷のあった馬喰町の邸が出てくる。
宝永4年(1707)11月23日午前10時、宝永の大噴火、富士山の中腹が大爆発をして17日間も噴火を続けた。折からの西風で駿東群59カ村に降り注いだ小岩や焼け砂は深いところで一丈四、五尺(約3.3m)にもなった。この地を支配する小田原藩は復旧は無理と「亡所」にし幕府に返地してしまったことも農民の悲惨に拍車をかけた。
このとき幕府が救済に当たらせたのが伊奈氏だった。現地に赴き悲惨さを目の当たりにして、復興と食糧確保に奔走した。降り積もった砂は雨で硬くなり、また捨てる場所にも困った。砂は結局低いところへ流れていくが、酒匂川の大氾濫も起こった。結果的に完全に取り除きに要した年月は36年も掛かった。
幕府財政のひっ迫もあり、幕府の要職はこの災害までも材料にして権力争いにうつつを抜かし、農民の困窮は募るばかり。富士山だけでなく農民も怒った。伊奈は駿府にあった幕府貯蔵米5千俵をかなり強引に放出させ飢饉を救った。
伊奈氏の行動は越権と断定されて郡代職を解任され、小説によると切腹した。駿東群北部の諸村では伊奈半左衛門忠順の徳を慕って処々に小祠建てた。幕府の目を恐れ参拝は一人ずつこっそりしたと言うことである。

時代が移り伊奈半十郎忠尊(ただたか)(12代)の時、天明の大飢饉(天明2〜7、1782〜87、東北地方中心、冷害による)が発生した。この時も伊奈氏は食糧確保に奔走し庶民から高い評価を受けた。だが、関東郡代の職を解かれ改易になり領地は没収、屋敷は取り壊された。両者は共に災害で困窮した人のために奔走したのが共通している、他にも類似するところがあったと思う。幕府の財政の悪化と、忠順時代は柳沢吉保、忠尊時代は田沼意次と言う側用人から将軍の寵愛を受けた専制執政であったことだ。いつの日にか忠尊を取り上げた小説が出ることを願うものです。
その後の伊奈家の消息は不明だが、菩提寺の源長寺墓には新しい卒塔婆が立てられていた。
いつの時代も庶民のために働く御仁は体制からは評価されないようである。遺徳を偲んで、伊奈氏縁の赤山城址と源長寺を紹介するページを大幅に改訂した。現場に数多く掲示してある説明をテキストに取り入れ写真も増やした。

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