茂林寺の分福茶釜と正法寺の分福茶釜

茂林寺の分福茶釜

正法寺の分福茶釜

茂林寺の分福茶釜
正法寺の分福茶釜
茂林寺オフィシャルサイトより
 当山は分福茶釜の寺として知られております。寺伝によると、開山大林正通に従って、伊香保から館林に来た守鶴は、代々の住職に仕えました。
  元亀元年(1570)、七世月舟正初の代に茂林寺で千人法会が催された際、大勢の来客を賄う湯釜が必要となりました。その時、守鶴は一夜のうちに、どこからか一つの茶釜を持ってきて、茶堂に備えました。ところが、この茶釜は不思議なことにいくら湯を汲んでも尽きることがありませんでした。守鶴は、自らこの茶釜を、福を分け与える「紫金銅分福茶釜」と名付け、この茶釜の湯で喉を潤す者は、開運出世・寿命長久等、八つの功徳に授かると言いました。
  その後、守鶴は十世天南正青の代に、熟睡していて手足に毛が生え、尾が付いた狢(狸の説もある)の正体を現わしてしまいます。これ以上、当寺にはいられないと悟った守鶴は、名残を惜しみ、人々に源平屋島の合戦と釈迦の説法の二場面を再現して見せます。
  人々が感涙にむせぶ中、守鶴は狢の姿となり、飛び去りました。時は天正15年(1587)2月28日。守鵜が開山大林正通と小庵を結んでから161年の月日が経っていました。
  後にこの寺伝は、明治・大正期の作家、巌谷小波氏によってお伽噺「文福茶釜」として出版され、茶釜から顔や手足を出して綱渡りする狸の姿が、広く世に知られる事になりました。
正法寺オフィシャルサイトより
 お茶会などでお湯を沸かす時に使われた茶釜だそうですが、汲んでも汲んでもお湯が減らず、それどころかどんどんお湯が湧き出す不思議な茶釜だったそうです。
 更にこの茶釜は勝手にあちらこちらに移動するので、太い鎖で本堂の隅につないでおりました。ある日、大火災で茅葺の大本堂は瞬く間に炎に包まれました。
鎖でつながれた茶釜は熱くてたまりませんでしたが、逃げるに逃げられず…… あまりの熱さで蓋だけが遠くへ飛んでいきました。逃げた先は群馬県の「茂林寺」というお寺。そのお寺では「守鶴の釜」といわれております。
 この群馬県館林市にある茂林寺という曹洞宗のお寺は全国的にも有名で、日本昔ばなし「分福茶釜」の題材にもなっております。
子どものころ読んだ「文福茶釜」は狸の茶釜が綱渡りをするものでした。館林市の茂林寺を訪ねたら、これはお伽噺でネタ元は茂林寺の分福茶釜だと知りました。
岩手県の奥州市に正法寺を訪ねると、茂林寺の茶釜はここから飛んで行ったと書かれている。ところが、茂林寺には開山の和尚に従った守鶴(しゅかく)なる者が「どこからか持ってきた」としかかいてありません。もっとも、どこから飛んできたのかは知るよしもなかったのでしょうが。
分福茶釜の氏素性が判明(?)した次第です。