水神社(さいたま市緑区大字大間木字八丁2395番)
通船堀〜富士塚案内図 附島女体神社 稲荷神社 鈴木家住宅 水神社 木曽呂の富士塚 見沼通船堀 稲荷神社 大聖不動堂 桜橋 東西縁の分岐点 東西縁分岐点 龍神象 spacer
水神社
spacer
水神社2 八丁橋
水神社アップ 芝川に架かる人道橋(左)と八丁橋(右)、正面は水神社
八丁堤
       さいたま市大字大間木〜川口市木曽呂
  八丁堤は、関東郡代伊奈半左衛門忠治が築いた人口の堤である。長さが八町(約870m)ほどあるのでその名が付けられた。
  徳川家康の関東入国後、伊奈氏は累代治水事業に力を尽くし利根川や荒川の流路を替えたり灌漑用水池を作るなど関東地方の治水事業を次々に完成させた。見沼溜井もその一つである。
  寛永6年(1629)、伊奈忠治は両岸の台地がもっとも接する浦和市大間木の附島と川口市木曽呂の間に堤を築き灌漑用水池を作った。その面積は1200uに及ぶ広大な溜井であった。この溜井は下流地域221か村の灌漑用水として使われたが、大雨が続くと氾濫したり、干ばつの時は水が足りなくなったりするなどいろいろ不都合が出て、享保12年(1727)、八代将軍吉宗の命を受けた井沢弥惣兵衛為永によって干拓されるに至った。
また、この八丁堤は寛永6年に伊奈忠治が陣屋を構えた赤山に通ずる「赤山街道」の一部でもある。
   昭和58年3月 さいたま市教育委員会 (八丁橋の脇に立つ解説板より)

↑先頭へ